工廠の跡地は何になったか 東京ドーム 森之宮 鈴鹿 平塚
工廠の跡地の行き先は、ひとつではありません。東京の 水道橋 (砲兵工廠跡) では球場を経てドームに、大阪の 森之宮 (大阪砲兵工廠跡) では公園と線路と街に分かれ、三重の 鈴鹿 (海軍工廠跡) では民間の大きな工場が並ぶ町に、神奈川の 平塚 (海軍火薬廠跡) ではタイヤとゴム製品の工場に変わりました。軍の施設のまま続いた例もあり、相模原 (米軍補給廠) は戦前に旧陸軍の相模陸軍造兵廠として使われ、1949 年に米軍に接収されたと相模原市は説明しています。
4 か所に共通するのは、工場が広く平らな一続きの敷地を占め、工場が去ったあとにその敷地が次の使い道へ移ったことです。年代別の空中写真で見比べると、跡地の中身は入れ替わっても、年代を通して位置を変えない線がどの地点にも残ります。ただし写真に工場そのものが写る地点は限られ、写るかどうかは工場が去った年と写真の年代の前後関係で決まります。
| 地点 | もとの施設 | 跡地の姿 |
|---|---|---|
| 水道橋 (砲兵工廠跡) | 陸軍の東京砲兵工廠 | 球場と競輪場を経て東京ドーム |
| 森之宮 (大阪砲兵工廠跡) | 陸軍の大阪砲兵工廠 | 公園と線路の束と街 |
| 鈴鹿 (海軍工廠跡) | 海軍の工廠 | 民間の大きな工場と住宅地 |
| 平塚 (海軍火薬廠跡) | 海軍の火薬廠 | タイヤとゴム製品の工場 |
工場が写る年代と写らない年代
跡地を写真で読むとき、最初に確かめたいのは、工場が動いていた時代の写真がその地点にあるかどうかです。地点ごとに選べる最も古い年代と、工場が去った年を並べると、写る地点と写らない地点がはっきり分かれます。
水道橋では、工廠の移転が終わったのが 1936 年 12 月で、最も古い写真は 1936〜42 年頃です。写真が撮られたときには、工場はもう去っていました。森之宮は 1928 年頃の写真まで遡れるので、工場の建屋が写ります。鈴鹿と平塚は最も古い写真が 1961〜69 年で、写るのは戦後の工場です。
| 地点 | 最も古い年代 | 写る時代 |
|---|---|---|
| 水道橋 (砲兵工廠跡) | 1936〜42 年頃 | 工廠が去った後の空き地 |
| 森之宮 (大阪砲兵工廠跡) | 1928 年頃 | 工廠の建屋が並ぶ時代 |
| 鈴鹿 (海軍工廠跡) | 1961〜69 年 | 跡地に民間の工場が入った後 |
| 平塚 (海軍火薬廠跡) | 1961〜69 年 | タイヤとゴム製品の工場の時代 |
水道橋 庭園の東の空き地が球場になる
水道橋の工廠は、江戸の大名屋敷の跡に置かれた陸軍の兵器工場で、1927 年に九州の小倉へ移すことが決まり、1936 年 12 月に移転を終えました。1936〜42 年頃の一枚は移転の直後にあたり、庭園の樹林の東側が、建屋の抜けた明るい地面として写ります。
その空き地に、年代ごとに施設が加わっていきます。1945〜50 年の一枚には楕円の球場が、1961〜69 年の一枚にはその北に細長い長円の走路が写り、1987〜90 年には長円のあった位置に白く丸い屋根が載ります。会社の沿革では、後楽園スタジアムの開場が 1937 年 9 月 11 日、後楽園競輪場が 1949 年 10 月 31 日、東京ドームが 1988 年 3 月 17 日です。
この間、庭園の樹林の輪郭はどの一枚でも形を変えていません。工廠の敷地のうち庭園だけが残り、空いた東側に施設が順に載り替わったことが、年代を送るだけで読めます。
森之宮 黒く塗られた一枚を挟む
森之宮の写真で目を引くのは、年代によって同じ一角の色がまるで違うことです。跡地のその後の姿は 工場跡地の再開発を比べる記事 で触れているので、ここでは年代の差と区画の形に絞ります。
1928 年頃の一枚には、城の堀と森の東に、向きをそろえた細長い建屋の群れが写ります。1936〜42 年頃の一枚ではその一角が黒く塗られて隠れ、その黒い面の読み方は 1936〜42 年頃の空中写真を扱う記事 にまとめてあります。
1945〜50 年には黒い面が消え、屋根を失ったような建屋の跡が並びます。1961〜69 年になると、一つの敷地が西の公園、中央を南北に通る線路の束、東の大きな暗い建屋という三つの帯に分かれ、色の付く 1974〜78 年の一枚でもこの並びは崩れていません。工場が写る年代から帯に分かれた年代までを、一つの地点の写真だけで続けて追えるのが森之宮です。
鈴鹿 工廠のために生まれた市
三重県の記録では、鈴鹿市の誕生が 1942 年 12 月 1 日、海軍工廠の設置が翌 1943 年 6 月 1 日で、市制は工廠を迎えるためのものだったようだとされています。工廠の置かれた場所は、近鉄鈴鹿線の終点の平田町駅のあたりです。戦後の 1950 年 11 月には、市が全国でも早い時期に工場設置奨励条例をつくり、紡績や化学の大きな会社が進出を決めました。
1961〜69 年の一枚では、中心の西に直角の道路で区切られた細長い建物の列と工場の大屋根が並び、東の田のあいだを曲がりながら抜ける細い道とは線の性格がまるで違います。1974〜78 年には西が家並みと塀に囲まれた工場の敷地で埋まる一方、東は 1979〜83 年になっても田の区画のままで、両者を分ける南北の道路は 1987〜90 年にも同じ位置にあります。
平塚 火薬廠からタイヤの工場へ
平塚市の文化財の頁によると、日本火薬製造は 1905 年 12 月 5 日に創立され、38 万坪で始まった工場の敷地は後に 42 万坪になりました。1919 年には海軍がこの会社を買い取って海軍火薬廠とし、戦後は横浜ゴムが敷地の払い下げを受けています。
1961〜69 年の一枚では、中心の南西に白く細長い工場の屋根が平行に並び、その東の端に白い円が一つ置かれ、敷地の中央を南北の直線の道路が分けています。北西の果樹の列は 1979〜83 年に褐色の裸地へ変わりますが、屋根の列と白い円は同じ位置にとどまります。
平塚の跡地は、敷地が工場のまま次の会社へ渡った例です。用途が変わらなかったので、屋根の並び方と白い円の位置は 1961〜69 年から 1987〜90 年までほとんど変わりません。変わったのは北隣の畑のほうで、跡地の区画の固さと周りの土地の変わりやすさが、同じ画面で対になっています。
出来事の年と写真の年代
開いた資料に残る年を、地点ごとの写真の年代と並べます。
| 地点 | 出来事 | 年 | 写真の年代との位置 |
|---|---|---|---|
| 水道橋 (砲兵工廠跡) | 工廠の移転が終わる | 1936 年 | 1936〜42 年頃の期間の初め |
| 水道橋 (砲兵工廠跡) | 後楽園スタジアムの開場 | 1937 年 | 1936〜42 年頃の期間の中 |
| 水道橋 (砲兵工廠跡) | 後楽園競輪場の開場 | 1949 年 | 1945〜50 年の期間の中 |
| 水道橋 (砲兵工廠跡) | 東京ドームの開場 | 1988 年 | 1987〜90 年の期間の中 |
| 鈴鹿 (海軍工廠跡) | 海軍工廠の設置 | 1943 年 | いちばん古い 1961〜69 年より前 |
| 鈴鹿 (海軍工廠跡) | 工場設置奨励条例 | 1950 年 | いちばん古い 1961〜69 年より前 |
| 平塚 (海軍火薬廠跡) | 海軍火薬廠になる | 1919 年 | いちばん古い 1961〜69 年より前 |
水道橋は、工廠が去った後の出来事がどれも写真の年代の期間の中に入るので、跡地の施設が一つずつ加わる順番を写真で確かめられます。鈴鹿と平塚は、軍の時代の出来事がどれもいちばん古い写真より前にあり、写真が写すのは民間の工場に替わった後の姿だけです。同じ工廠の跡地でも、写真で追える区間がこれだけ違います。
中身は替わり、動かない線は残る
4 か所を並べると、跡地の変わり方には二つの型があります。水道橋と森之宮は、敷地の中身がまるごと入れ替わった型です。水道橋では庭園という動かない区画を残して東側に施設が載り替わり、森之宮では一つの敷地が公園と線路と建屋の帯に分かれました。鈴鹿と平塚は、工場の土地が工場のまま民間に渡った型です。なかでも平塚は、敷地の中身も 1961〜69 年から 1987〜90 年までほぼ動かない例です。
どの型でも、写真の上には年代を通して位置を変えない線があります。水道橋の庭園の樹林の輪郭、森之宮の敷地を南北に貫く線路の束、鈴鹿の工場の敷地の東で家並みと田を分ける南北の道路、平塚の敷地の中の工場の屋根の列と白い円は、いずれも次の表の二つの年代のあいだで同じ位置にあります。
| 地点 | 動かない線 | 確かめる年代 |
|---|---|---|
| 水道橋 (砲兵工廠跡) | 庭園の樹林の輪郭 | 1936〜42 年頃と 1987〜90 年 |
| 森之宮 (大阪砲兵工廠跡) | 敷地を南北に貫く線路の束 | 1961〜69 年と 1974〜78 年 |
| 鈴鹿 (海軍工廠跡) | 家並みと田を分ける南北の道路 | 1979〜83 年と 1987〜90 年 |
| 平塚 (海軍火薬廠跡) | 工場の屋根の列と白い円 | 1961〜69 年と 1987〜90 年 |
標高で見る工廠の置き場所
工廠が置かれた土地の高さも、地点ごとに違います。水道橋は中心が 4.4 m、西の測点が 3.1 m で、東の測点だけが 16.4 m と高く、川沿いの低い土地が台地の縁にかかる位置です。
鈴鹿は四方の測点が 22.4 m から 25.0 m に収まり、平塚は 7.2 m から 9.8 m のあいだです。郊外の 2 か所はいずれも測点どうしの差が 3 m に満たず、広い敷地を一続きの直線で区切れる平らな土地だったことが、高さの数字にも表れています。川沿いの低い土地で水がどう出るかの想定は、国土交通省のハザードマップポータルサイトに各自治体の公表資料がまとまっています。
地価公示で見る跡地の周り
水道橋、鈴鹿、平塚の近くの地価公示の標準地は、どれも住宅地です。記録の始まる年が地点ごとに違うので、3 か所がそろう 2013 年と 2026 年を並べます。森之宮の近くの値の動きは、前に挙げた工場跡地の再開発を比べる記事で扱っています。どの値も跡地そのものの値ではなく、中心から数百 m 離れた住宅地の値です。
| 地点 | 標準地と中心からの距離 | 記録の始まり | 2013 年 | 2026 年 |
|---|---|---|---|---|
| 水道橋 (砲兵工廠跡) | 文京区本郷 1 丁目、401 m | 2013 年 | 110 万円 | 290 万円 |
| 鈴鹿 (海軍工廠跡) | 鈴鹿市平田東町、568 m | 1985 年 | 4 万 7,900 円 | 4 万 8,700 円 |
| 平塚 (海軍火薬廠跡) | 平塚市西八幡 3 丁目、787 m | 2000 年 | 16 万 6 千円 | 18 万 3 千円 |
2013 年から 2026 年までの 13 年で、水道橋の近くは 2.6 倍あまりになりました。同じ 13 年で、鈴鹿の近くは 800 円、平塚の近くは 1 万 7 千円の上がり幅です。都心の 1 か所と郊外の 2 か所で、同じ期間の動き方がはっきり分かれます。
年代を送って確かめる
跡地の読み方を試すなら、工場が写る年代を持つ森之宮から始めるのが近道です。1928 年頃と 1936〜42 年頃を交互に切り替えると、建屋の並びが黒い面に隠される瞬間が分かり、続けて 1945〜50 年と 1961〜69 年へ送ると、一つの敷地が三つの帯に分かれていく順番が追えます。
水道橋では 1936〜42 年頃と 1945〜50 年を並べて庭園の東の空き地に楕円が現れるところを見てください。鈴鹿では 1979〜83 年と 1987〜90 年を並べて家並みと田を分ける道路が動かないところを、平塚では 1961〜69 年と 1987〜90 年を並べて工場の屋根の列が動かないところを確かめられます。
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