水道橋 (砲兵工廠跡) の約 60 年前と今
昔と今の比較
周辺で撮影された単写真: 1963 年 6 月 26 日 (地点から 0.5 km)
この年代の見どころ: 庭園の東で、北寄りの長円の走路と南東の扇形の球場が並ぶ。走路のあった位置は、今の写真ではドームの屋根の下である
操作方法: ドラッグで移動 / 右ドラッグで回転と傾き / ⌘ か Ctrl を押しながらスクロールで拡大縮小操作方法: 2 本指でスライドして移動 / ピンチで拡大縮小 / 2 本指の上下ドラッグで傾き
※ 3D の標高データは現在の測量にもとづくものです。写真の撮影当時の地形ではありません。標高タイル: 地理院タイルを加工して作成
3D 表示を読み込めませんでした。通信状態をご確認のうえ、もう一度お試しください。
※ 地形の陰影は現在の測量にもとづくものです。写真の撮影当時の地形ではありません。陰影起伏図: 地理院タイルを加工して作成
※ 地図は現在のものです。写真の撮影当時の地図ではありません。地図: © OpenStreetMap contributors
出典: 地理院タイル (年代別空中写真 / 全国最新写真 / 単写真) を加工して作成
この周辺を自由に見る地図を動かして、まわりの昔と今も見比べられます。
東京都の水道橋 (砲兵工廠跡)周辺を写した 1961〜1969 年の空中写真に、現在の写真を重ねて比較できます。写真はすべて国土地理院が公開しています。
この地点で見られる写真の年代
水道橋 (砲兵工廠跡)周辺では、次の年代の空中写真を比較に使えます。
この地点には 1936〜1942 年頃から 1987〜1990 年までの 7 つの年代の写真があります。最新の 1987〜1990 年の写真は、2026 年時点で 37 年前のものです。それ以降の写真は、この地点にはありません。年代ごとの違いは空中写真の年代ガイドにまとめています。
年代ごとの提供範囲は地域によって異なります。ここには、この地点で実際に写真がある年代だけを載せています。
この地点の標高
水道橋駅付近の標高 (海抜) は 4.4 m です (出典: 国土地理院 標高 API)。あわせて、この地点を中心とした東西と南北の地形断面を載せています。








断面の位置 (縦の緑の線 = 南北 / 横の青い線 = 東西)
標高は地表面の値です (駅が地下や高架にある場合も、値は地表面のものです)。標高は防災上の一要素にすぎません。実際の水害リスクなどは、ハザードマップポータルサイトや自治体が公表するハザードマップでご確認ください。
断面の標高タイル:地理院タイルを加工して作成
鉄道でのアクセス
水道橋駅には次の路線が乗り入れています。
- 都営 三田線
- JR 東日本 中央線
路線情報の出典:国土数値情報 (鉄道データ / 国土交通省) を加工して作成。
市街地の割合から見た変化のようす
1976 年と 2021 年の土地利用で比べると、半径 500 m の市街地の割合は 68% から 88% へ変わりました。市街地の広がりは、掲載地点の中では中ほどです。下のバーは、この地点の市街地の広がりが掲載地点の分布のどのあたりにあるかを示しています。
出典: 国土数値情報 (土地利用細分メッシュ / 1976 年と 2021 年 / 国土交通省) を加工して作成。写真のきめ細かさ (テクスチャ量) は 16.9 から 38.3 へ変わっています。写真どうしの機械的な比較で、撮影時期や白黒とカラーの違いによる差も含まれるため、あくまで目安としてご覧ください。
地価公示価格の推移
この地点に最も近い地価公示の標準地は「東京都 文京区本郷 1 丁目 107 番 1」(直線距離で約 401 m / 用途は住宅) です。この標準地の 2013 年から 2026 年までの公示価格 (1 平方メートル当たり) の推移は次のとおりです。2026 年公示では 2,900,000 円です。
推移を表で見る
| 年 | 公示価格 |
|---|---|
| 2013 年 | 1,100,000 円 |
| 2014 年 | 1,140,000 円 |
| 2015 年 | 1,190,000 円 |
| 2016 年 | 1,270,000 円 |
| 2017 年 | 1,360,000 円 |
| 2018 年 | 1,460,000 円 |
| 2019 年 | 1,600,000 円 |
| 2020 年 | 1,770,000 円 |
| 2021 年 | 1,770,000 円 |
| 2022 年 | 1,840,000 円 |
| 2023 年 | 1,950,000 円 |
| 2024 年 | 2,120,000 円 |
| 2025 年 | 2,400,000 円 |
| 2026 年 | 2,900,000 円 |
出典: 国土数値情報 (地価公示データ / 国土交通省) を加工して作成。公示価格は毎年 1 月 1 日時点の標準地について公表される値で、個々の土地の取引価格を示すものではありません。標準地の選定や所在地は年によって見直されることがあります。
近くの地点
水道橋から近い順に並べています。見比べると、同じ地域がどう移り変わってきたかがつかめます。
地図の印を選ぶと、地点名とその地点へのリンクが出ます。
同じ成り立ちの地点
水道橋と同じく工場跡として生まれた街を、離れた地域から選んでいます。土地の使われ方や街の形を比べ、共通点を探せます。
地図の印を選ぶと、地点名とその地点へのリンクが出ます。
この地点が登場するよみもの
さいきん見た街
この履歴はお使いの端末の中だけに保存され、サーバーには送られません。ブラウザーの設定によっては、しばらく訪れないでいると自動的に消えることがあります (アプリとして使うと消えにくくなります)。
別の街のうつりかわりも、のぞいてみませんか。
























水道橋 (砲兵工廠跡) のあゆみ
神田川を背にした水道橋の北の一角には、江戸初期の大名庭園と、白い屋根の大きな球場が隣り合っている。庭園を抱えていた水戸家の屋敷の跡は、明治から昭和初期まで陸軍の兵器工場が占めていた。空中写真に写るのは、その工場が去った後の姿である。工場そのものが写る年代はない。写真をたどって見えてくるのは、庭園の黒い樹林だけが動かず、その東隣の空き地に球場と長円の走路が現れ、やがて走路の位置に白い屋根が載るまでの過程である。
屋敷の庭と兵器工場
庭園は寛永 6 年、水戸徳川家の頼房が屋敷に築き、二代の光圀の代に完成したとされる。後楽園の名は、光圀が意見を求めた明の儒学者朱舜水の考えから付けられた。明治に入ると屋敷の跡は兵部省、のちの陸軍省の所管となって東京砲兵工廠が造られ、庭園は工廠に付属する園地として残された。屋敷が丸ごと工場に変わるなかで、池と築山だけが守られた形である。
庭園の池を満たしていたのは、井の頭池の湧水を引いた神田上水だった。上水は屋敷の内を通り抜け、駅の名と同じ水道橋という掛樋で神田川を越えて、江戸の町へ水を配った。1901 年に飲み水としての役目を終えた後も、上水は工廠の工業用水として使われ続け、工廠の移転に合わせて 1933 年に廃止されている。上水が通った水路は、園内の流れとして形を残している。
転機は 1923 年の関東大震災だった。工廠は施設の大半を焼かれ、庭園でも石橋や岩組が倒れた。1927 年には工廠を九州の小倉へ移すことが決まり、庭園は文部省の所管に移る。東京都の資料によれば、1936 年 12 月に工廠の移転が終わり、東京市が庭園の管理を引き継いだ。同じ 1936 年 12 月には、職業野球のための球場を建てて運営する会社として後楽園スタヂアムが創立されている。
地形の上では、この一帯は神田川に沿った低い土地にあたり、東側だけが本郷の台地の縁にかかって一段高い。川沿いの低い土地が大雨や揺れでどうなるかは、文京区と東京都がそれぞれハザードマップで想定を示している。
庭園の東の空き地
1936〜42 年頃の一枚では、画面の中央からやや左に、庭園の樹林が黒い塊となって沈んでいる。その東側は明るく開けた地面で、道の筋や建物の土台らしい四角い跡が薄く残り、ところどころに屋根が散るだけである。工場の建屋が抜けた後の敷地とみられる。ただし粒子が粗く、拡大しても球場の楕円ははっきりとは読み取れない。中央の下寄りには川と線路が東西に並んで走り、右手の台地の側には細かい家並みが黒く詰まっている。画面の右上には、大きな建物が中庭を囲んで並ぶ広い構内がある。左下の隅では濠の水面が斜めに伸び、その先で川と合流する。空き地の白さは、周りを埋める家並みの黒さに挟まれて一層目立つ。
1945〜50 年の写真になると、庭園の東に楕円の球場がはっきりと写る。1937 年 9 月に開場した後楽園スタジアムである。運営会社の記録では、戦争末期の球場は高射砲の陣地となり、グラウンドは菜園に変わった。1945 年 11 月には進駐軍に接収され、翌年に解除されている。同じ 1945 年の戦災では、庭園の堂や門も焼けた。写真では画面の下半分が白く飛び、家並みの細かな陰影がほとんど読めない。庭園の樹林と球場の楕円だけが、その白い広がりのなかで輪郭を保っている。
長円の走路と扇形の球場
1961〜69 年には、庭園の東に二つの競技場が並ぶ。北寄りにあるのは細長い長円の走路で、1949 年 10 月に開場した後楽園競輪場にあたる。その南東、駅に近い側には扇形に開いた球場があり、内野と外野で地面の色が分かれている。二つの競技場の南には四角い大きな建屋が並び、庭園の黒い樹林と白い競技場の対比がこの年代で最もくっきりする。1945〜50 年に白く飛んでいた画面の下半分も、この年代には屋根の細かな陰影で埋まっている。
長円の内側を鮮やかな緑が覆い、その上に黒く丸い点がいくつか散る。1974〜78 年の写真に現れる姿である。都営の競輪は 1973 年に廃止され、走路の内側は夏はプール、冬はゴルフの練習場として使われた。球場の外野も緑で、1976 年には日本で初めて野球用の人工芝が敷かれている。1979〜83 年には、球場の東側に白い屋根の細長い建物が加わる。外野の緑と内野の茶色が扇の形をくっきりと区切り、長円の内側も緑のままである。1984〜86 年でも長円の走路は白い線の形を残しているが、競技場は 1984 年に閉じた。
走路の跡に載った白い屋根
1987〜90 年の写真では、長円の走路があった場所に白く丸いドームの屋根が載っている。1988 年 3 月 17 日に開場した東京ドームである。南東の扇形の球場は 1987 年に役目を終え、その位置は灰色の不規則な面に変わっていて、取り壊しの途中に見える。庭園の樹林は、この年代でも形を変えていない。
今の写真でも、ドームの白い屋根と庭園の緑が並ぶ構図は同じである。旧球場の位置には大きな建物が建ち、ドームの周りは舗装と建物で埋まった。画面の右上の広い構内も、左下で斜めに伸びる濠の水面も、1936〜42 年頃の一枚と同じ場所にある。七つの年代と今の写真を通して大きく入れ替わったのは、庭園の東の土地だけである。庭園の内側には、工廠の碑が旧屋敷の形をかたどって残され、弾薬を作る機械の部品と伝わるものも置かれている。屋敷、工場の時代を経て、庭園の東に球場が建った。そのあいだ、庭園の輪郭だけは一度も動かなかった。