本牧の米軍住宅と埋め立て 海岸線が沖へ出た年代を読む
本牧の海岸線が沖へ出たのは、1945〜50 年の写真から 1961〜69 年の写真までのあいだです。本牧 の写真を古い順に送ると、岬を回っていた海の側は早い年代のうちに埋立地へ置き換わるのに、米軍の家族住宅が並んだ岬の先の平地は、1982 年 3 月 31 日の返還まで同じ使われ方を続けます。海の側が先、陸の側が後という二つの速さが、同じ画面に重なっています。
この記事では、接収と埋め立てと返還の年を写真の年代に重ね、どの一枚がどちらの変化の途中を写しているかを確かめます。一枚ずつの細かな見どころは地点ページの解説に譲り、ここでは海岸線の位置と住宅地の使われ方の二つだけを追います。目印になるのは、もとの汀の位置に残った道路の曲線です。
1945〜50 年 弧の海岸線と住宅の列
1945〜50 年の一枚では、画面の右半分がまだ海で、海岸線は岬の先を自然な弧で回っています。岸の内側の平地には白い四角い建物が同じ向きと間隔でそろい、不揃いに詰まった周りの家並みとの違いで住宅地の広がりが見分けられます。
沖に格子のように並ぶ黒い短冊は、中区の年表に本牧の海苔の記事が並ぶことから、養殖の棚と見られます。地点の標高は中心が 5.2 m、東が 4.5 m で、北の 29.7 m との差はおよそ 25 m あります。丘の裾から海へ下る斜面の低い側で、陸が海に替わっていたことになります。
接収と小さなアメリカの街
中区の年表は、1945 年 5 月の横浜大空襲で区のほぼ全体が焼けるなか、焼けずに残った所として本牧と根岸と山手の一部を挙げています。焼け残った本牧の平地は翌年に接収され、横浜市史資料室の資料では、1 号住宅地区が 1946 年 2 月 15 日、2 号住宅地区が同じ年の 10 月 10 日の接収です。
住宅地の一角には PX と食料品店があり、グラウンドとテニスコート、劇場までそろっていました。同じ資料はその姿を小さなアメリカの街と呼んでいます。接収の 1946 年は 1945〜50 年の写真の期間の中にあり、この年代の一枚は住宅地が使われはじめた頃の姿にあたります。
先に動いた海 1959 年から 1964 年
海の側が動きはじめたのは 1959 年です。中区の年表では、この年の 2 月に根岸湾の海面埋立が起工し、1963 年 3 月に第 1 期の埋立の完工式が開かれました。同じ 1963 年の 10 月には本牧ふ頭の関連産業地帯の造成が始まり、1964 年 5 月には根岸線が桜木町から磯子まで通じています。起工から第 1 期の完工までは 4 年です。
その間も住宅地は、日米安保条約に基づく無期限の使用が続きました。年表は、横浜港や関内の大部分が返還された後も本牧の住宅地が残ったと記しています。
出来事の年と写真の年代
| 年 | 出来事 | 写真の年代との位置 |
|---|---|---|
| 1946 年 | 1 号住宅地区 (2 月) と 2 号住宅地区 (10 月) が接収される | 1945〜50 年の期間の中 |
| 1959 年 | 根岸湾の海面埋立が起工する | 1945〜50 年と 1961〜69 年のあいだ |
| 1963 年 | 第 1 期埋立の完工式。本牧ふ頭の関連産業地帯の造成に着手 | 1961〜69 年の期間の中 |
| 1964 年 | 根岸線の桜木町から磯子までが開通 | 1961〜69 年の期間の中 |
| 1982 年 | 区画整理の認可 (1 月) と住宅地区の返還 (3 月) | 1979〜83 年の期間の中 |
| 1987 年 | 区画整理が終わり、海側の集合住宅に最初の入居 | 1987〜90 年の期間の中 |
表のうち 1959 年から 1964 年までの 3 行は海の側と鉄道の出来事で、1982 年と 1987 年の 2 行は陸の側の出来事です。海の側の出来事は 1961〜69 年の期間までに収まり、陸の側の返還と区画整理は 1979〜83 年の期間から後に固まっています。写真の年代でいえば、二つの変化のあいだには 1974〜78 年の一枚がまるごと挟まります。
1961〜69 年と 1974〜78 年 止まっていた陸
1961〜69 年の一枚では、1945〜50 年に海だった画面の右と下の大半が陸になり、貯槽や岸壁が並ぶ工場と港の土地に変わっています。1945〜50 年に汀だった弧の位置には、道路が 1 本、同じ曲がり方で通っています。海岸線が沖へ出たというより、陸が海岸線を越えて外へ足されたと言うほうが写真の姿に近いでしょう。この年代は上半分が白く飛んでいて、住宅地の細部は読めません。
色の付いた 1974〜78 年の一枚で、住宅地の中は黄色みのある草地に小さな建物がまばらに散り、南の詰まった街並みとの密度の差がはっきりします。外側の埋立地では貯槽が増え、東の縁には高架の線が通りました。接収から 30 年ほどたっても、岬の先の平地の使われ方は 1945〜50 年からほとんど動いていません。
返還から最初の入居まで
住宅地で最後の日米親善の盆踊り大会が PX 広場を会場に開かれたのは、返還の前年にあたる 1981 年 8 月だと年表は記します。1982 年 1 月に新本牧地区の土地区画整理事業が認可され、3 月には横浜海浜住宅を含む米軍の住宅地区 81 ha が返還されています。基盤の整備に取りかかったのは同じ年の 11 月で、事業が終わる 1987 年 3 月には、海側の集合住宅の地区の 12 階建ての建物に最初の住人が入りました。
1987〜90 年の一枚は、区画整理の事業が終わった直後の姿です。住宅の列があった中心の一帯は、草地が裸地に変わり、建物のほとんど無い地面に新しい道路の筋が通っています。接収から返還までは 36 年、返還から最初の入居までは 5 年です。住宅地として使われ続けた平地を、1 つの区画整理の事業で引き直したことになります。
旧海岸線は道路の曲線に残った
| 年代 | 海岸線の位置 | 住宅地の姿 |
|---|---|---|
| 1945〜50 年 | 岬を回る自然の弧。沖に海苔の棚の列 | 白い四角い建物が同じ間隔で並ぶ |
| 1961〜69 年 | 弧の外が陸になり、弧は道路の曲線に | 上半分が白く飛び、細部は読めない |
| 1974〜78 年 | 東に高架の線、南の埋立地に貯槽が増える | 黄色い草地に小さな建物がまばら |
| 1979〜83 年 | 下半分の道路と貯槽は前と同じ姿 | 上の三分の一と中心が写っていない |
| 1987〜90 年 | 曲線の道路はそのまま | 草地が裸地になり、新しい道路の線だけ |
| 2026 年時点 | 曲線の道路に高架の道路が重なる | 中層の建物と住宅が整った格子を埋める |
表の海岸線の列は 1961〜69 年で一度書き換わった後、道路の曲線という同じ目印のまま続きます。住宅地の列は 1974〜78 年までほぼ同じで、1987〜90 年から書き換わります。1979〜83 年の一枚は上の三分の一と中心が欠けていますが、下半分の曲線の道路は読めるので、海岸線の目印には使えます。2026 年時点では、区画整理の格子と、その外に残る南の不揃いな路地との違いが、事業の範囲の境として読めます。
横浜のほかの海辺と比べる
同じ横浜の海辺でも、写真に写る年代のあいだに岸の形が動いたかどうかは場所ごとに違います。みなとみらい は 1945〜50 年の一枚ですでに貨物の線路と岸壁の陸で、1974〜78 年まで地区の輪郭はほとんど変わりません。南の 金沢シーサイドタウン は、1961〜69 年には海岸線がまだほぼもとのままで、1974〜78 年に造成のさなかの白い土地が写ります。写真に写る年代のうちで、海が陸に変わる様子を 1961〜69 年までにとらえているのは、3 か所のなかで本牧だけです。埋立地の見分け方そのものは 埋立地を空中写真と地図でたどる記事 にまとめてあります。
| 地点 | 1961〜69 年 | 1974〜78 年 |
|---|---|---|
| 本牧 | 弧の外がすでに陸で、貯槽と岸壁が並ぶ | 南の埋立地の貯槽が増える |
| みなとみらい | 貨物の線路の束が太く、岸壁に大型の船 | 地区の輪郭は前の年代とほぼ同じ |
| 金沢シーサイドタウン | 海岸線の形はほとんど変わらない | 右半分が白い造成のさなか |
ほかの米軍住宅の跡と比べる
練馬区の 光が丘 (グラントハイツ跡) は、1948 年 6 月に完成した宿舎が 1973 年 9 月 30 日に全面返還され、光が丘 5 丁目の入居が始まる 1983 年まで返還から 10 年ほどかかった例で、本牧の 5 年の倍の長さです。沖縄の 北谷 (美浜) は、1981 年のハンビー飛行場の返還と、1986 年 4 月から 1987 年 9 月までの海辺の埋め立てが同じ時期に重なった例です。
本牧では海の埋め立てが先に進み、返還された陸の区画整理が 20 年ほど遅れて続きました。根岸湾の埋立の起工の 1959 年から返還の 1982 年までは 23 年あり、その間の写真の年代は、岬の先の平地の外側だけが変わっていった時期を写しています。二つの工事の時期がずれていたことが、本牧の写真を年代ごとに送るときのいちばんの読みどころです。
標高と地価公示で確かめる
地点の中心の標高は 5.2 m で、東の測点は 4.5 m、西は 6.5 m、南は 8.7 m です。北の 29.7 m だけが丘の上の値で、住宅地の平地と埋立地はどちらも海面からわずかな高さに広がります。低地と埋立地で水がどう出るかの想定は、国土交通省のハザードマップポータルサイトに各自治体の公表資料がまとまっています。
地価公示の標準地は、中心から 344 m 離れた本牧三之谷の住宅地です。1 平方メートルあたりの価格を 2026 年公示まで並べると、次のとおりです。2026 年公示までで最も低いのは 2006 年の 28 万 6 千円で、2026 年公示までで最も高いのは記録の始まる 1994 年の 49 万 7 千円です。1994 年から 2006 年までの 12 年で 21 万 1 千円下がり、2006 年から 2026 年までの 20 年で 7 万 1 千円上がりました。2026 年の 35 万 7 千円は、1994 年の値の 7 割あまりです。
| 年 | 価格 |
|---|---|
| 1994 年 | 49 万 7 千円 |
| 2000 年 | 37 万 5 千円 |
| 2006 年 | 28 万 6 千円 |
| 2012 年 | 28 万 7 千円 |
| 2020 年 | 33 万 6 千円 |
| 2026 年 | 35 万 7 千円 |
本牧の地点ページで 1945〜50 年と 2026 年時点の写真を交互に切り替えると、汀の弧と道路の曲線が重なる位置がすぐに見つかります。そこから 1974〜78 年と 1987〜90 年へ送れば、草地が裸地を経て格子の街区に変わる順番も、同じ画面のなかで確かめられます。出来事の表の年と見比べながら送ると、どの一枚が海と陸のどちらの変化の途中にあるかが分かります。
本記事の価格は各時点の実例であり、執筆後の市場価格を反映するものではありません。