光が丘 (グラントハイツ跡) の約 60 年前と今
昔と今の比較
中央の写真の撮影: 1961〜66 年
この年代の見どころ: 宿舎の内側に整列する小さな住宅と、外側の畑や不ぞろいな家並みを比べると、区画の形の違いが分かる
操作方法: ドラッグで移動 / 右ドラッグで回転と傾き / ⌘ か Ctrl を押しながらスクロールで拡大縮小操作方法: 2 本指でスライドして移動 / ピンチで拡大縮小 / 2 本指の上下ドラッグで傾き
この 3D の地形は現在のものです。昔の写真と重ねたときのずれこそ、丘を削り谷を埋めた造成の証拠です。
※ 3D の標高データは現在の測量にもとづくものです。写真の撮影当時の地形ではありません。標高タイル: 地理院タイルを加工して作成
3D 表示を読み込めませんでした。通信状態をご確認のうえ、もう一度お試しください。
※ 地形の陰影は現在の測量にもとづくものです。写真の撮影当時の地形ではありません。陰影起伏図: 地理院タイルを加工して作成
※ 地図は現在のものです。写真の撮影当時の地図ではありません。地図: © OpenStreetMap contributors
出典: 地理院タイル (年代別空中写真 / 年度別空中写真 / 全国最新写真 / 単写真 / 写真の撮影期間) を加工して作成
この周辺を自由に見る地図を動かして、まわりの昔と今も見比べられます。
東京都の光が丘 (グラントハイツ跡)周辺を写した 1961〜1969 年の空中写真に、現在の写真を重ねて比較できます。写真はすべて国土地理院が公開しています。
この地点で見られる写真の年代
光が丘 (グラントハイツ跡)周辺では、次の年代の空中写真を比較に使えます。
この地点には 1936〜1942 年頃から 2007 年度までの 8 つの年代の写真があります。最新の 2007 年度の写真は、2026 年時点で 18〜19 年前のものです。それ以降の写真は、この地点にはありません。年代ごとの違いは空中写真の年代ガイドにまとめています。
年代ごとの提供範囲は地域によって異なります。ここには、この地点で実際に写真がある年代だけを載せています。
この地点の標高
光が丘駅付近の標高 (海抜) は 36.6 m です (出典: 国土地理院 標高 API)。あわせて、この地点を中心とした東西と南北の地形断面を載せています。








断面の位置 (縦の緑の線 = 南北 / 横の青い線 = 東西)
標高は地表面の値です (駅が地下や高架にある場合も、値は地表面のものです)。標高は防災上の一要素にすぎません。実際の水害リスクなどは、ハザードマップポータルサイトや自治体が公表するハザードマップでご確認ください。
断面の標高タイル:地理院タイルを加工して作成
鉄道でのアクセス
光が丘駅には次の路線が乗り入れています。
- 都営 大江戸線
路線情報の出典:国土数値情報 (鉄道データ / 国土交通省) を加工して作成。
市街地の割合から見た変化のようす
1976 年と 2021 年の土地利用で比べると、半径 500 m の市街地の割合は 76% から 83% へ変わりました。市街地の広がりは、掲載地点の中ではやや小さい部類 (下位 2〜4 割)です。下のバーは、この地点の市街地の広がりが掲載地点の分布のどのあたりにあるかを示しています。
出典: 国土数値情報 (土地利用細分メッシュ / 1976 年と 2021 年 / 国土交通省) を加工して作成。写真のきめ細かさ (テクスチャ量) は 15.4 から 43.4 へ変わっています。写真どうしの機械的な比較で、撮影時期や白黒とカラーの違いによる差も含まれるため、あくまで目安としてご覧ください。
地価公示価格の推移
この地点に最も近い地価公示の標準地は「東京都 練馬区田柄 5 丁目 5308 番 14 外」(直線距離で約 401 m / 用途は住宅) です。この標準地の 2015 年から 2026 年までの公示価格 (1 平方メートル当たり) の推移は次のとおりです。2026 年公示では 491,000 円です。
推移を表で見る
| 年 | 公示価格 |
|---|---|
| 2015 年 | 349,000 円 |
| 2016 年 | 355,000 円 |
| 2017 年 | 362,000 円 |
| 2018 年 | 373,000 円 |
| 2019 年 | 388,000 円 |
| 2020 年 | 401,000 円 |
| 2021 年 | 397,000 円 |
| 2022 年 | 402,000 円 |
| 2023 年 | 415,000 円 |
| 2024 年 | 433,000 円 |
| 2025 年 | 460,000 円 |
| 2026 年 | 491,000 円 |
出典: 国土数値情報 (地価公示データ / 国土交通省) を加工して作成。公示価格は毎年 1 月 1 日時点の標準地について公表される値で、個々の土地の取引価格を示すものではありません。標準地の選定や所在地は年によって見直されることがあります。
近くの地点
光が丘から近い順に並べています。見比べると、同じ地域がどう移り変わってきたかがつかめます。
地図の印を選ぶと、地点名とその地点へのリンクが出ます。
同じ成り立ちの地点
光が丘と同じくニュータウンとして生まれた街を、離れた地域から選んでいます。土地の使われ方や街の形を比べ、共通点を探せます。
地図の印を選ぶと、地点名とその地点へのリンクが出ます。
この地点が登場するよみもの
さいきん見た街
この履歴はお使いの端末の中だけに保存され、サーバーには送られません。ブラウザーの設定によっては、しばらく訪れないでいると自動的に消えることがあります (アプリとして使うと消えにくくなります)。
別の街のうつりかわりも、のぞいてみませんか。
























光が丘 (グラントハイツ跡) のあゆみ
光が丘は練馬区の北部、武蔵野台地の上に広がる団地と公園の街である。この土地は 80 年あまりのあいだに、畑から陸軍の飛行場へ、米軍の家族宿舎へ、草地へ、そして団地へと四度も用途を替えてきた。入れ替わりはどの年代でも、ほぼ同じ枠の中で起きている。枠を決めたのは飛行場で、練馬区によれば、街を南北に貫く一本の道は成増飛行場の滑走路の跡である。戦後の宿舎の時代には、区報が治外法権の区域と伝えるほど、周りの街とは切り離された場所でもあった。
飛行場の前の畑
1936〜42 年頃の写真は、飛行場が完成する前の一枚である。画面のほぼ全体を短冊や四角に割られた小さな畑が埋め、屋敷林が黒い塊となって点々と散る。昭和の初めまでこの一帯は上練馬村と呼ばれる農村で、写真にもその姿がそのまま残っている。上寄りを東西に細い道が一本通り、右上の隅では道沿いに家並みが続く。目を引くのは中央である。そこだけ畑の区画が読みにくく、白っぽく明るい面が楕円に近い形で広がっている。北側の暗い畑とは明らかに調子が違うが、造成の始まりなのか、作物や季節の違いなのかは写真だけでは決められない。確かなのは、この時点ではまだ滑走路の直線も建物の列も写っていないことである。
飛行場は 1943 年、土支田 / 田柄 / 高松にまたがる土地に、首都防衛のため陸軍が建設した。約 80 世帯がこのとき立ち退いている。区報には、空襲から機体を守る掩体壕まで近所の住民が軍用機を引いて行ったという回想が載る。完成から終戦までは 2 年ほどしかなかった。
滑走路を芯にした宿舎
1945〜50 年の写真では、畑の広がっていた中央に南北に長い白い長方形が現れ、その真ん中を一本の軸線が縦に貫く。長方形の内側には格子状の道が引かれているが、建物はまだまばらである。北側には曲線を描く街路が何本も走り、小さな家が列をなして建ちはじめている。右上には同じ形の細長い建物が整然と並ぶ一角がある。画面の東からは細い線が中央の右へ入り込んでいる。終戦後まもなく、宿舎の建設資材を運ぶ鉄道が上板橋駅から敷かれており、この線はその鉄道とみられる。長方形の外は、相変わらず畑と屋敷林である。
宿舎は 1948 年 6 月に完成し、第 18 代米国大統領グラントの名をとってグラントハイツと呼ばれた。1961〜69 年の写真では、長方形の中が小さな住宅で埋まっている。平屋らしい家が南北の通りに沿って規則正しく並び、北側の曲線の街路にも同じような家が連なる。中央の北東寄りには運動場のような広い矩形と大きな建物があり、右上の細長い建物の列も残る。宿舎の外では畑のなかに住宅の小さな塊が増え、左下の隅には白く丸い貯槽がいくつか並ぶ。宿舎の内と外で区画の形が違うことが、この年代の写真ではっきり見て取れる。
1959 年には宿舎の横田基地などへの移転が始まり、やがて返還を求める運動が起こった。1968 年に米軍が返還に同意し、翌 1969 年、緑と太陽のまちを象徴する名として「光が丘」と名付けられた。1972 年の第一次返還を経て、1973 年 9 月 30 日に約 182 ヘクタールが全面返還された。
草に覆われた十年
1974〜78 年には、返還から間もない跡地が写る。長方形の南半分では住宅がほとんど消え、淡い褐色の裸地に旧い街路の格子だけが線として残る。北半分にも空き地が目立ち、左上の端には楕円の陸上トラックがある。右上には高層の板状の住棟が 4 棟並ぶ。上端の帯は別の日の撮影で、紫がかって写る。周囲はすでに市街地で、畑は細切れの区画として残るだけである。
1979〜83 年になると、跡地は一面の緑褐色に変わる。草や低木が広がり、旧い街路の格子が透けて見える。1979 年に東京都の開発案が都市計画決定されたのち、北寄りの一角では白く大きな矩形の工事が進んでいる。宿舎の跡が街になるまでには、返還から 10 年ほどの空白があった。
団地と公園の割り振り
街の形が見えはじめるのは 1984〜86 年である。地点のすぐ北を東西に太い道が横切り、その西側と南西に高層の住棟が並ぶ。北の区域は樹林と芝地、楕円のトラックをもつ公園になっており、ここは 1981 年 12 月に都立光が丘公園として一部が開園している。画面の中ほどからは、細く高い構造物の影が北西へ一筋伸びる。1983 年 10 月に竣工した清掃工場の煙突とみられる。同じ 1983 年には、光が丘 5 丁目で団地の入居が始まった。
1987〜90 年には、滑走路だった南北の軸の両側を高層の住棟が隙間なく埋める。軸は街の背骨として残され、北の公園の樹林は濃さを増した。公園の中には楕円のトラックと方形の広場が並び、住棟の群れの西と南の縁には、白く平らな屋根の四角い建物がいくつか置かれている。1991 年には都営地下鉄 12 号線、のちの大江戸線が練馬から光が丘まで開通した。
今の写真では、北の公園が角の丸い長方形の輪郭のまま濃い樹林に覆われ、方形の広場と楕円のトラックがその中に収まる。区報によれば開園のころの木々は植えられたばかりで小さく、1984〜86 年の写真でも樹林はまだ所々に固まる程度だったが、今は樹冠が連なって地面がほとんど見えない。中心の高層群のあいだを、南北の緑の筋がまっすぐ通る。公園と団地が占める範囲は、1974〜78 年に跡地として空いていた範囲とほぼ重なり、周りの細かな家並みとの境がそのまま街の縁になっている。左下の白く丸い貯槽と右上の 4 棟の住棟は、古い年代から同じ場所に写り続ける。