立川 (立川飛行場跡) の約 60 年前と今
昔と今の比較
周辺で撮影された単写真: 1961 年 9 月 5 日 (地点から 0.5 km)
この年代の見どころ: 左の帯の脇と中央の舗装に、白い十字の形の飛行機が並ぶ。1974〜78 年へ送ると、同じ場所から飛行機が消えている
操作方法: ドラッグで移動 / 右ドラッグで回転と傾き / ⌘ か Ctrl を押しながらスクロールで拡大縮小操作方法: 2 本指でスライドして移動 / ピンチで拡大縮小 / 2 本指の上下ドラッグで傾き
※ 3D の標高データは現在の測量にもとづくものです。写真の撮影当時の地形ではありません。標高タイル: 地理院タイルを加工して作成
3D 表示を読み込めませんでした。通信状態をご確認のうえ、もう一度お試しください。
※ 地形の陰影は現在の測量にもとづくものです。写真の撮影当時の地形ではありません。陰影起伏図: 地理院タイルを加工して作成
※ 地図は現在のものです。写真の撮影当時の地図ではありません。地図: © OpenStreetMap contributors
出典: 地理院タイル (年代別空中写真 / 全国最新写真 / 単写真) を加工して作成
この周辺を自由に見る地図を動かして、まわりの昔と今も見比べられます。
東京都の立川 (立川飛行場跡)周辺を写した 1961〜1969 年の空中写真に、現在の写真を重ねて比較できます。写真はすべて国土地理院が公開しています。
この地点で見られる写真の年代
立川 (立川飛行場跡)周辺では、次の年代の空中写真を比較に使えます。
この地点には 1961〜1969 年から 1987〜1990 年までの 5 つの年代の写真があります。最新の 1987〜1990 年の写真は、2026 年時点で 37 年前のものです。それ以降の写真は、この地点にはありません。年代ごとの違いは空中写真の年代ガイドにまとめています。
年代ごとの提供範囲は地域によって異なります。ここには、この地点で実際に写真がある年代だけを載せています。
この地点の標高
立川 (立川飛行場跡) の代表地点の標高 (海抜) は 87.5 m です (出典: 国土地理院 標高 API)。あわせて、この地点を中心とした東西と南北の地形断面を載せています。








断面の位置 (縦の緑の線 = 南北 / 横の青い線 = 東西)
標高は地表面の値です (駅が地下や高架にある場合も、値は地表面のものです)。標高は防災上の一要素にすぎません。実際の水害リスクなどは、ハザードマップポータルサイトや自治体が公表するハザードマップでご確認ください。
断面の標高タイル:地理院タイルを加工して作成
鉄道でのアクセス
立川 (立川飛行場跡) の最寄り駅のひとつは立川駅です。次の路線を使えます。
- JR 東日本 青梅線
- JR 東日本 中央線
- JR 東日本 南武線
路線情報の出典:国土数値情報 (鉄道データ / 国土交通省) を加工して作成。
市街地の割合から見た変化のようす
1976 年と 2021 年の土地利用で比べると、半径 500 m の市街地の割合は 21% から 79% へ変わりました。市街地の広がりは、掲載地点の中では大きい部類 (上位 2 割)です。下のバーは、この地点の市街地の広がりが掲載地点の分布のどのあたりにあるかを示しています。
出典: 国土数値情報 (土地利用細分メッシュ / 1976 年と 2021 年 / 国土交通省) を加工して作成。写真のきめ細かさ (テクスチャ量) は 7.9 から 40.5 へ変わっています。写真どうしの機械的な比較で、撮影時期や白黒とカラーの違いによる差も含まれるため、あくまで目安としてご覧ください。
地価公示価格の推移
この地点に最も近い地価公示の標準地は「東京都 立川市高松町 2 丁目 14 番 16」(直線距離で約 830 m / 用途は住宅) です。この標準地の 2008 年から 2026 年までの公示価格 (1 平方メートル当たり) の推移は次のとおりです。2026 年公示では 410,000 円です。
推移を表で見る
| 年 | 公示価格 |
|---|---|
| 2008 年 | 321,000 円 |
| 2009 年 | 313,000 円 |
| 2010 年 | 292,000 円 |
| 2011 年 | 286,000 円 |
| 2012 年 | 285,000 円 |
| 2013 年 | 288,000 円 |
| 2014 年 | 299,000 円 |
| 2015 年 | 304,000 円 |
| 2016 年 | 309,000 円 |
| 2017 年 | 314,000 円 |
| 2018 年 | 320,000 円 |
| 2019 年 | 328,000 円 |
| 2020 年 | 335,000 円 |
| 2021 年 | 335,000 円 |
| 2022 年 | 340,000 円 |
| 2023 年 | 352,000 円 |
| 2024 年 | 365,000 円 |
| 2025 年 | 384,000 円 |
| 2026 年 | 410,000 円 |
出典: 国土数値情報 (地価公示データ / 国土交通省) を加工して作成。公示価格は毎年 1 月 1 日時点の標準地について公表される値で、個々の土地の取引価格を示すものではありません。標準地の選定や所在地は年によって見直されることがあります。
近くの地点
立川から近い順に並べています。見比べると、同じ地域がどう移り変わってきたかがつかめます。
地図の印を選ぶと、地点名とその地点へのリンクが出ます。
同じ成り立ちの地点
立川と同じく工場跡として生まれた街を、離れた地域から選んでいます。土地の使われ方や街の形を比べ、共通点を探せます。
地図の印を選ぶと、地点名とその地点へのリンクが出ます。
さいきん見た街
この履歴はお使いの端末の中だけに保存され、サーバーには送られません。ブラウザーの設定によっては、しばらく訪れないでいると自動的に消えることがあります (アプリとして使うと消えにくくなります)。
別の街のうつりかわりも、のぞいてみませんか。
























立川 (立川飛行場跡) のあゆみ
立川駅の北に、縦に長い一つの区画がある。西の半分は芝と林と池、東の半分は役所の建物と高い棟の並ぶ街区で、そのあいだを今も一本の滑走路が南北に走る。ここはかつての立川飛行場である。立川市の都市計画マスタープランは、鉄道があり、首都に近く、しかも平坦な地形であることから、1922 年にこの地に飛行場が設けられたと記す。羽田に空港ができるまでは民間の航空にも使われ、立川は一時「空の都」と呼ばれた。空中写真の画面の中央に写るのは、その飛行場の東側の、飛行機が並んでいた舗装の面である。
陸軍から米軍へ
飛行場より先に来たのは鉄道だった。1889 年に甲武鉄道が新宿と立川のあいだで開通して駅の北口が開かれ、1894 年には青梅鉄道、1929 年には南武鉄道、1930 年には五日市鉄道が乗り入れて、立川は線路の集まる町になった。飛行場はその駅の北に置かれた。空中写真でも、基地の南の端と駅の線路の束とのあいだは、市街地の帯ひとつ分しか離れていない。
昭和に入ると飛行場は陸軍の拠点となり、周りには軍の施設と飛行機の工場が増えた。戦後は米軍に接収されて立川基地となり、駅の周りには基地で働く人と、米兵を相手にする店が集まった。米軍が 1955 年に滑走路を北へ延ばす拡張を計画すると、反対する住民の砂川闘争が起こる。計画は 1968 年に断念され、翌年には米軍機の飛行が止まった。そのあいだの 1963 年には、立川市と砂川町が合併し、市の区域がほぼ今の形になっている。拡張のために買い取られた北側の土地は、計画の中止のあとも長く使われないまま残されたと市の資料は記す。
1961〜69 年の写真は、この基地がまだ動いていた頃の姿である。画面の左側を細長い帯が南北に貫き、その脇には白い十字の形の飛行機がいくつも翼を並べる。中央には灰色の広い舗装の面が開け、そこにも数機が止まっている。舗装の東の縁には切妻の屋根の長い建物が何棟も平行に並び、画面の右上では白い大屋根の倉庫らしい建物が群れをなす。基地の外側では、画面の下寄りを駅の線路が東西に束になって走り、その南も東も、小さな屋根が軒を連ねる市街地である。右の中ほどには楕円の走路を持つ競技場が見える。基地の内と外で地面の粒の大きさが違い、内側は広い舗装と長い建物、外側は細かな家並みで埋まる。
飛行機の消えた舗装
1974〜78 年の写真では、飛行機が一機も見えない。左の帯は黒っぽい一本の線となって残り、中央の舗装の面は乾いた褐色の地面に囲まれて、ところどころが剝げたように薄くなっている。東の縁の長い建物と、右上の倉庫の群れは前の年代と同じ位置にある。市の資料によれば、米軍が横田基地へ移ることが発表され、1977 年に立川基地は全面返還された。この年代の写真は、返還の前後の、使われなくなった飛行場をとらえている。
黄色く枯れた草地が、1979〜83 年の写真では中央のほとんどを覆い、舗装の輪郭だけが薄い線として残る。右上の倉庫の周りには白い粒が無数に散らばる。並べて止められた車の列とみられる。返還された土地の使い道は、1979 年の国の答申で、国営の公園と広域防災基地と市街地の整備に振り分けることが決まった。1983 年には国営昭和記念公園が一部開園する。
1984〜86 年の写真では、画面の左側が先に動いている。左の帯には白い区切りの印が並び、その脇に白い大屋根の格納庫らしい建物と、整然と区切られた広い駐車の面が現れる。さらに左の端では、池を囲む園路が曲線を描き、公園の造成が進んでいることが分かる。中央の草地はまだ広く空いたままで、南の端に赤茶けた四角い面が一つ加わった程度である。1987〜90 年の写真には、中央の西寄りに建物の群れと工事の跡が現れ、空き地の造成が始まっている。
空の都の跡地に建つ街
中央の草地だった所は、2026 年時点で碁盤の目の街区となり、白い屋根の大きな建物や中層の棟が区画ごとに並ぶ。その東の縁に沿って一本の通りが南北に延び、駅に近づくにつれて背の高い建物が重なる。この通りに重なる細い線は、2000 年に全線が開業した多摩都市モノレールの軌道とみられる。跡地には国の行政機関が次々と移り、立川基地跡地関連地区の再開発で業務と商業の街区ファーレ立川が整えられた。
左の半分は、1984〜86 年に造成が始まっていた公園の緑で覆われる。左の端の池は今も同じ形で残り、その周りを濃い樹冠の林が埋めている。滑走路も消えてはいない。左の帯は白い印をつけたまま今も南北に延び、格納庫らしい大屋根も同じ場所に並ぶ。市の資料には、広域防災基地に東京消防庁と立川駐屯地が置かれ、周りの地区には航空法による建物の高さの制限が掛かると書かれている。滑走路だけが当時の向きのまま、街区と公園のあいだに挟まっている。
もう一つ、見落としやすい残り方がある。1961〜69 年に舗装の東の縁を固めていた切妻の長い建物の列は、1974〜78 年にも 1987〜90 年にも同じ向きで写り、今の写真でもモノレールの通りの東側に、白い屋根の細長い棟が平行に並んでいる。棟の数も間隔も、白黒の写真の頃とよく似ている。右上の倉庫の群れも、屋根の色が変わり一部が新しい建物に置き換わりながら、大屋根の並ぶ一角として続いている。中央の草地が街区に変わる何十年ものあいだ、その東の縁の列は基地の頃の形をほとんど崩さなかった。
飛行場の跡地は、公園と防災の基地と市街地の三つに分けられ、それぞれが別の速さで姿を変えた。右の中ほどの楕円の競技場と、画面の下寄りの駅の線路の束は、1961〜69 年からどの年代にも同じ場所に写り、基地の外の街の骨組みが動かなかったことを示している。