昔の写真で見る 浜松駅 姫路駅 富山駅 高松駅
県都の駅に接していた広い面
県都の駅を古い空中写真で開くと、駅の表口の側はどの年代でも市街で埋まっています。屋根の粒が入れ替わり、通りの幅が変わることはあっても、面の使い方そのものは変わりません。年代を送って大きく書き換わるのは、その表口に接した別の面です。貨車を並べ替えるための側線が何本も並ぶ帯、船から荷を受ける岸壁、船が向きを変えるための水面。旅客の駅とひと続きの敷地でありながら、街の用には供されていなかった面が、1961〜69 年の写真ではどの駅にも広く写っています。
この記事では 浜松駅の北東・姫路駅の北口側・富山駅の北・高松駅の駅前 の 4 か所を並べます。読み方はどれも同じで、まず表口の側に写るものを覚え、次にそこへ接した用地に写るものを見る、という対で往復します。用地が置かれた向きは 4 か所とも違い、浜松は駅の北東、姫路は駅の北から東、富山は駅の北、高松は駅前から海際にかけてです。方位を先に頭へ入れておくと、年代を切り替えたときに目が迷いません。
浜松駅 昔の写真は 5 世代がそろう
浜松駅の北東 は、4 か所のなかでいちばん多く、1945〜50 年から 1987〜90 年まで 5 つの年代の写真を送れます。表口の側、つまり駅の南から西にかけては、1961〜69 年の時点ですでに屋根がびっしり詰まり、道の白い線が網の目として浮かびます。天竜川が運んだ土砂の上に載った平らな土地で、東海道が東西へ抜ける道筋に沿って市街が伸びました。
対になるのが、駅から東へ伸びる構内です。1974〜78 年の写真では、この面が黄土色の帯として画面を横切り、その内側に細い線の縞が並びます。帯の幅は駅に近い側で太く、東へ行くほど細くなります。ところが 1979〜83 年になると、駅の北側で縞の詰まっていた面の一部が明るい空白に置き換わり、そのなかに円い構造物らしい形が現れます。1987〜90 年では空白が駅の北から北東へ広がり、線の縞はほとんど残りません。縞が消えて空白が広がる画面は、5 つの過去の年代のうち一度しか写りません。
この面が空いたのは、浜松駅の周辺で高架化と土地区画整理が進められ、貨物駅の機能が市の西寄りへ移されたためです。既存の道路で細かく割られていない都市の中心の敷地が、まとめて残ったことになります。1994 年、そこにアクトシティ浜松が開きました。高さ 212 m 余りの塔と大小のホール、宿泊や展示の施設が組み合わされ、2026 年時点の写真では周囲の屋根の粒とは大きさの違う建物の群れとして写ります。
姫路駅 昔の写真に写る北口側の線路の束
姫路駅の北口側 で表口の側にあたるのは、駅から北へまっすぐ延びる幅の広い通りです。1961〜69 年の写真では、周りの道がどれも細いために、この一本だけが不自然に太く見えます。通りの突き当たりには四角い輪郭の堀と樹林があり、そこが城です。堀と天守の位置は、どの年代に切り替えても動きません。年代送りの目印として、まずこの南北の軸を覚えておくと迷いません。
対になる面は、駅の北から東へ伸びる鉄道用地です。1961〜69 年の写真では、画面の中央を東西に太い帯が横切り、駅の東側で細い線が扇のように分かれます。線の目が細かいほど、貨車を細かく扱っていた場所だと読めます。帯の北側は堀のきわまで小さな建物が密集した市街で、帯を越えた南側は長方形の田畑が一面に並ぶだけです。同じ駅の近くで、帯の北と南がまったく別の景色になっています。
1974〜78 年のカラー写真では、帯の内側がより細かく読めます。駅の東に並ぶ側線の束、細長い建物が規則正しく並ぶ荷扱いらしい一角、駅の西で分かれて北へ向かう線。街のなかでもっとも広く空いている面が、この帯でした。1979〜83 年に進むと帯の南側の田畑は商業と住宅の街区に置き換わりますが、帯そのものは動きません。2026 年時点の写真に切り替えると、東西に並んでいた線は細い一本の帯にまとまり、側線が占めていた面には四角い建物と舗装された区画が並びます。キャスティ 21 と呼ばれる一帯です。駅の前には屋根のある歩行者の面が張り出し、北へ向かう通りの幅は写真の上でもいっそう際立ちます。
富山駅 昔の写真は 2 枚だけ 前後で挟んで読む
富山駅の北 は、使える過去の年代が 1961〜69 年と 1974〜78 年の 2 つしかありません。5 世代の浜松駅のように段階を追って変化をたどることはできません。そこで読み方を変えて、古い 2 枚で前を挟み、2026 年時点の写真で後ろを受ける、という形で見ます。前後で挟むと、2 枚のあいだで動いたものと、3 枚を通して動かなかったものが分かれて見えてきます。
表口の側は、駅の南です。1961〜69 年の写真では、道が放射状に集まる円い広場があり、そこから先は幅の広い直線道路で区切られた碁盤の市街になります。対になる駅の北には、細長い水面が横たわります。画面の上の縁から一本の運河が入り、中央で幅を増して丸く行き止まります。西の岸には細長い建屋と長い屋根の棟が帯になって続き、東の岸は大きな長方形の耕地です。駅から東へは数十本に広がる線路の束があり、線と線のあいだの短い点列が留め置かれた貨車の粒として写ります。
1974〜78 年で色がつくと、水面の形はほとんど変わらないまま、周りの色が入れ替わります。西の岸の工場は屋根の数を増やし、丸い輪郭の設備も現れます。東の岸では長方形の耕地に街路が引かれ、小さな屋根が規則正しく並ぶ住宅地に変わります。そして 2026 年時点の写真では、中央の水面の両岸が緑で縁取られ、芝の面と曲がる園路、水面を渡る細い橋が読み取れます。富岩運河環水公園です。北の縁から入る運河はまっすぐで、幅も向きも 1961〜69 年の一枚とそのまま重なります。入れ替わったのは陸の使い方で、3 枚を通して残ったのは水の形でした。
高松駅 昔の写真に写る扇形と桟橋
高松駅の駅前 は、表口と隣の用地の距離がもっとも近い例です。1961〜69 年の写真で表口の側にあたる画面の下三分の二は、屋根が細かく詰まった市街で埋まり、幅の広い直線の街路が何本も通っています。中央の上寄りだけ目の粗さの違う大きな区画があり、それが城跡です。堀に海水を引く海城で、その北の水際が埋立ての出発点になりました。
対になる面は、城跡の北です。画面の上半分をひといろの暗い海が占め、その海際、中央左に扇を開いたように何十本もの線路が広がります。扇の付け根は南西の市街へ細く束ねられ、先端はそのまま港の岸壁に届きます。荷を船と貨車で受け渡すための形が、地面にそのまま描かれています。船で着いた客がそのまま列車に乗り継げるよう、岸壁と改札が数十歩の距離に押し込められていた土地です。海には細い突堤が二本、斜めに突き出します。
1974〜78 年では海が緑がかった青に変わり、左手の白かった造成地に建物が並び始めます。1979〜83 年の一枚は全体が青みの強い調子で、扇はこの年代でも変わらず、赤茶けた路盤が南西へ束ねられて伸びていきます。転機は 1988 年 4 月 10 日でした。児島と坂出を結ぶ瀬戸大橋が開通し、本州と四国が橋で結ばれると、船と列車の継ぎ目のために広げられていた岸壁と側線は、同じ規模では要らなくなります。2026 年時点の写真では扇はどこにも残っていません。線路は数本の直線に整理されて西へ抜け、側線と岸壁が占めていた場所は芝生の緑と広い舗装に置き換わり、そこへ数棟の高い建物が立ちます。サンポート高松と呼ばれる一帯です。
街の内側へ切れ込んだ細長い水面は、1961〜69 年の写真と同じ角度で 2026 年時点にも残ります。両岸の建物は建て替わりましたが、水際には白い小舟が列をつくって舫われています。大型の岸壁が沖へ移っても、小さな船の居場所は動きませんでした。
表口に写るものと隣の用地に写るもの
4 駅の対を一覧にすると、方位と用地の性格の違いがはっきりします。浜松駅と姫路駅は鉄道の用地、高松駅は鉄道と港湾の用地、富山駅は水運と鉄道の結び目です。
| 駅 | 表口の側に写るもの | 隣の用地の方位と写るもの |
|---|---|---|
| 浜松駅 | 駅の南から西に詰まった市街と道の網の目 | 駅の北東 縞の並ぶ構内が空白に置き換わる |
| 姫路駅 | 北へ延びる幅の広い通りと堀に囲まれた城 | 駅の北から東 東西に横切る線路の帯と扇形に分かれる線 |
| 富山駅 | 駅の南の円い広場と碁盤の市街 | 駅の北 細長い水面と丸く行き止まる舟だまり |
| 高松駅 | 城跡の堀と樹林 その南に詰まった市街 | 駅前から海際 扇形に開く側線と港の岸壁 |
4 駅で送れる年代をそろえる
同じ切り口で 4 駅を見比べるなら、写真がそろっている年代を先に確かめておくと無駄がありません。4 駅すべてに共通するのは 1961〜69 年と 1974〜78 年の 2 つだけです。この 2 つの年代なら、浜松駅も姫路駅も富山駅も高松駅も同じ条件で並べられます。1945〜50 年の白黒が開けるのは浜松駅だけ、1979〜83 年が開けるのは姫路駅と高松駅です。
| 駅 | 送れる過去の年代 | 枚数 |
|---|---|---|
| 浜松駅 | 1945〜50 年 1961〜69 年 1974〜78 年 1979〜83 年 1987〜90 年 | 5 |
| 姫路駅 | 1961〜69 年 1974〜78 年 1979〜83 年 | 3 |
| 富山駅 | 1961〜69 年 1974〜78 年 | 2 |
| 高松駅 | 1961〜69 年 1974〜78 年 1979〜83 年 | 3 |
枚数の差は、そのまま読み方の差になります。浜松駅では面が空いていく途中の姿を 1979〜83 年で捕まえられますが、富山駅では途中の姿が写真に残っていません。同じ問いを立てても、返ってくる答えの細かさが駅ごとに違うわけです。
標高で見るとどの駅も平らな面
側線を何本も並べて長い列を留めるには、平らで、しかも幅と長さをまとめて取れる面が要ります。4 駅の標高を五つの計測点で見ると、どこも端から端までの差が 2 m 以内に収まります。浜松駅の北東は中心 4.3 m で、高い側が北と西の 4.9 m、低い側が南の 4.1 m。姫路駅の北口側は中心 10.8 m で、北の 11.5 m から南の 10.2 m まで。富山駅の北は中心 6.0 m で、北の 6.6 m と西の 4.9 m が両端です。西だけ低いのは、そちらが神通川の河原へ向かって下がる側だからです。
いちばん低いのは高松駅の駅前で、中心が 2.0 m、西が 3.0 m、東が 1.6 m しかありません。埋立てと造成でつくった平面には、坂と呼べるものがほとんどありません。低い土地の水の想定については、国土交通省のハザードマップポータルサイトに各自治体の公表資料がまとまっています。
地価公示の記録を年で閉じて並べる
4 か所にはそれぞれ近くに公示地価の観測点があり、いずれも住宅地です。地点からの隔たりは、高松駅の駅前が 226 m、富山駅の北が 519 m、姫路駅の北口側が 631 m、浜松駅の北東が 890 m です。用地の跡そのものの値ではなく、その隣で暮らす街の値だと考えて読むほうが正確です。値はすべて 1 平方メートルあたりで、2026 年公示までを範囲としています。
| 駅 | 記録の範囲 | 範囲の初めの年の値 | 2026 年の値 |
|---|---|---|---|
| 浜松駅の北東 | 2013〜2026 年 | 24 万 3 千円 | 33 万 4 千円 |
| 姫路駅の北口側 | 2017〜2026 年 | 16 万 5 千円 | 23 万 4 千円 |
| 高松駅の駅前 | 2017〜2026 年 | 11 万 9 千円 | 13 万 2 千円 |
| 富山駅の北 | 1983〜2026 年 | 10 万 7 千円 | 11 万円 |
浜松駅・姫路駅・高松駅の 3 か所は、記録が始まる年から 2026 年まで、前の年を下回った年がありません。増え方には差があり、高松駅の駅前は 2017 年の 11 万 9 千円から毎年 1 千円から 3 千円ずつの動きで 2026 年の 13 万 2 千円に達しています。姫路駅の北口側は同じ 2017 年から 2026 年までで 16 万 5 千円から 23 万 4 千円まで動いています。
記録が 1983 年から続く富山駅の北だけは、形が違います。1983 年の 10 万 7 千円から上がって、記録のなかでいちばん高いのは 1992 年と 1993 年の 21 万 5 千円です。そこから長い下りに入り、いちばん低いのは 2014 年の 7 万 2 千円でした。以後は向きが変わり、2026 年は 11 万円です。記録の初めと末がほぼ同じ高さで並ぶ、一往復の形になっています。40 年を超える記録がある場所では、10 年に満たない記録から受ける印象がそのまま延長できないことが分かります。
4 枚を同じ手順で読む
4 駅を通して言えるのは、駅に接した用地は街の側から使われていなかったからこそ、まとめて別の用途へ移せたということです。既存の道路で細かく割られておらず、境界が鉄道や港湾の側で一本にまとまっていました。だから浜松駅ではホールと塔、姫路駅では四角い建物と広い舗装、富山駅では芝と園路、高松駅では芝生と数棟の高い建物という、性格の違う面が同じ理由で生まれています。4 駅でそろって残ったのは、境界の形だけでした。
手順としては、まず 1961〜69 年を開いて表口の側と用地の対を覚え、次に 1974〜78 年で色の付いた同じ画角を見て、最後に 2026 年時点の写真へ飛びます。浜松駅では 1979〜83 年と 1987〜90 年を挟むと、面が空いていく途中まで追えます。年代の送り方そのものに迷ったら 年代ガイド と 写真の見方 に手順をまとめています。操車場の跡地が街に変わった例をもっと見たいときは 操車場跡 が続きになります。
浜松駅の北東・姫路駅の北口側・富山駅の北・高松駅の駅前 の 4 つの地点ページで、年代を切り替えて確かめてみてください。同じ手順を 4 回繰り返すと、駅ごとの違いが写真の側から立ち上がってきます。
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