百道浜の埋め立て前 海水浴の浜の線は街のどこに残るか

公開日: 2026 年 10 月 17 日 / この記事は約 8 分で読めます

百道浜の埋め立て前は松原を背にした砂浜

百道浜 の埋め立て前の姿は、博多湾に面した白い砂浜と、その陸側に帯をなして続く松原です。空中写真の年代を古い順に送ると、砂浜が最後に写るのは 1974〜78 年の一枚で、次の 1987〜90 年には浜の外側へ四角い造成地が張り出しています。福岡市博物館の解説によれば、海岸の埋め立てが始まったのは 1982 年です。二枚の写真のあいだに挟まる十年近い空白が、そのまま浜が街の内側へ取り込まれた期間にあたります。

では、浜の線はどこへ行ったのでしょうか。同じ解説は、むかしの海岸線が道路に変わったと記しています。砂浜は跡形もなく消えたわけではなく、街区のなかを通る一本の道路として残り、その海側の地面がまるごと 1980 年代に足されました。海水浴場として親しまれた百道の浜の横顔は 昔は海だった場所の記事 に譲ります。

松を植えた浜と、砂丘に積まれた石塁

白い砂に濃い松の帯が添う海辺は、自然のままの姿ではありません。福岡市博物館によると、1618 年に初代福岡藩主の黒田長政が松の植林を命じ、百道の砂浜は博多湾の潮風をさえぎる松原へ変わっていきました。写真に写る松の帯は、江戸時代の初めに人の手で引かれた線です。

浜の位置をもっと古い時代から示すのが、元寇防塁です。福岡市の文化財の解説では、鎌倉幕府が 1276 年に博多湾の海岸線へ石築地を築かせ、西新地区の防塁は砂丘の上に粘土を敷いて石を積み上げた構造でした。早良区西新七丁目に国の史跡として残る石塁は、13 世紀の海岸線に沿って立っていたことになります。防塁の並び、1970 年代まで写る砂浜の縁、造成地の護岸と、この海辺には時代の違う三本の線が内陸から沖へ重なっています。

4 つの年代で浜の線を追う

百道浜の地点で選べる過去の写真は 5 つの年代で、ここでは 1987〜90 年までの 4 つを並べます。浜の線に注目して並べると、変化が起きる場所は最後の一枚の手前まで陸の側に限られています。陸の側の家並みの移り変わりは、地点ページ で年代を送ると確かめられます。

百道浜の写真で浜の線がどう見えるか
年代浜の線の位置
1945〜50 年砂浜が海岸線をなす
1961〜69 年海岸線の位置はほとんど動かない
1974〜78 年砂浜が残る最後の一枚
1987〜90 年浜の外側へ四角い造成地が突き出す

1945〜50 年から 1974〜78 年までのおよそ 30 年、浜の線は同じ位置にとどまり、市街地だけが浜へ向かって詰め寄っていきます。1974〜78 年と 1987〜90 年の二枚のあいだには写真が無く、浜が内側へ入る途中の段階は追えません。

浜の形が写る最後の一枚

百道海水浴場の跡を写真で探すとき、浜の形が写る最後の一枚は 1974〜78 年です。写るのは浜の形であって、そこで泳ぐ人の数ではありません。海水浴場の開設と閉鎖の年は一次資料に年号が無く、書き方も資料によって違います。

浜の線は道路になり、海側の地面は低く仕上がった

1974〜78 年の写真で砂浜の縁の位置を覚えてから 2026 年時点の写真へ切り替えると、その線より海側が造成地の街区に置き換わっています。浜の線は、旧来の市街と造成地とを分ける境目として、街の内側に入りました。

境目の両側では、地面の高さも違います。百道浜の地点の中心は 1.9 m で、内陸の南の計測点は 4.1 m、東の地行浜の側は 3.3 m です。北と西には値がありません。その向きは 2026 年時点の写真でも水面にあたるためです。造成地のなかほどが、内陸の南の計測点より 2 m あまり低いという並びになります。高潮や津波の想定は、国土交通省のハザードマップポータルサイトに福岡市の公表資料がまとまっています。

浜は街の外側にも造り直されました。造成地の北の縁には人工の砂浜が設けられ、福岡市海浜公園の一部になっています。2026 年時点では、例年 7 月上旬から 9 月初旬に限って百道浜地区の東側で遊泳ができます。埋め立てで海岸線から外れた浜の役目を、沖へ移った新しい浜が引き継いだ形です。

芦屋浜は浜の外へ陸を二段に足した

浜の線が街の内側に隠れた例として、百道浜にいちばん近い道筋をたどったのが 芦屋浜 です。1945〜50 年の写真では白く光る砂の帯が弧を描いて海岸線をつくり、1961〜69 年には市街が海際まで迫りながらも、弧の形はほとんど変わりません。1974〜78 年になって海へ張り出す二区画の裸地が現れ、1984〜86 年にはその南に二つ目の造成地が育ち始めます。造成の経緯と住宅群の歩みは 大阪湾岸の記事 にまとめてあります。

百道浜と違うのは、地面の高さの並びです。芦屋浜の地点の中心は 4.2 m、東は 4.4 m、西は 3.7 m、南は 3.5 m で、最も低いのは旧来の市街の側にあたる北の 2.1 m です。造成地のほうが、もとからの陸より高く仕上がっています。百道浜では造成地の中ほどが内陸より低く、芦屋浜では逆になります。同じ「浜の外に陸を足す」工事でも、積んだ土の高さは事業ごとに別々に決まることが、二つの数字の並びから読み取れます。

浜の造り直しも、芦屋浜のほうが一段沖で起きました。二つ目の造成地の縁には扇形に整えた白い砂浜があり、桟橋にヨットが並ぶ水面と隣り合っています。百道浜が造成地の縁に浜を一本引いたのに対し、芦屋浜は陸を二段に重ね、その外側の縁に浜を置きました。

りんくうタウンは四枚とも浜が海岸線のまま

りんくうタウン の過去の写真は 1961〜69 年、1974〜78 年、1979〜83 年、1984〜86 年の 4 つの年代で、どの一枚でも海と陸を分けているのは白い砂浜です。浜の線は北東から南西へまっすぐ伸び、護岸の直線ではなく波が寄せる浜の縁として写ります。沖には養殖の設備とみられる点の列が年代を追って増えますが、陸の輪郭は動きません。

浜の外側に陸が現れるのは 2026 年時点の写真だけです。海に面した縁は折れ線をつないだ護岸に変わります。百道浜には造成直後の 1987〜90 年の一枚があり、浜が内側へ入った直後の姿を確かめられますが、りんくうタウンにはその中間の写真がありません。浜の線が最後に海岸線として写る年代から、いきなり完成後の街へ飛ぶことになります。

和歌山マリーナシティは浜を残して沖に島を置いた

浜を街の内側へ取り込んだ百道浜とは反対に、和歌山マリーナシティ は浜の線を海岸線のまま残しました。本土の側では砂浜が 2026 年時点の写真にも残っています。ただし浜の沖には直線の構造物が置かれ、水際の形は 1961〜69 年の白黒の一枚とは同じではありません。

霞ヶ浦は浜の名を町名と駅名に残した

浜の線が地形から消えても、浜の名前は地図に残ることがあります。四日市の 霞ヶ浦地区 は、遠浅の海に砂浜が続き、海水浴の場として知られた海辺でした。埋立地の町名は霞で、地価公示の地点も霞 1 丁目にあります。本土の側を走る近鉄名古屋線の駅名は霞ヶ浦です。砂浜のころの呼び名の字が、埋立地の住所と駅の名の両方に引き継がれました。百道浜でも事情は同じで、造成地の町名は早良区の百道浜と中央区の地行浜という、どちらも元の浜の名を継いだものです。写真から浜の線が消えたあとも、地名が浜のあった方角を指し続けています。

地価公示の記録は浜の行方と重なるか

5 地点の近くにある地価公示の記録を、2026 年 10 月時点で参照できる範囲 (2026 年公示まで) で並べました。金額はいずれも 1 平方メートルあたりです。

5 地点の近くの地価公示 (2026 年公示まで)
地点用途と距離記録の最初最も低い年2026 年
百道浜住宅 / 約 1 km1999 年 24 万円2011 年と 2012 年 21 万 7 千円44 万 1 千円
芦屋浜住宅 / 約 350 m1993 年 67 万円2005 年 23 万円32 万 5 千円
りんくうタウン住宅 / 約 670 m1999 年 14 万 1 千円2014 年と 2015 年 6 万 2,100 円7 万 2 千円
和歌山マリーナシティ住宅 / 約 1.3 km1995 年 13 万円2026 年 4 万 2,300 円4 万 2,300 円
霞ヶ浦地区工場 / 約 250 m1993 年 5 万 1 千円2018 年、2019 年、2021 年、2022 年 2 万 2,600 円2 万 5,100 円

百道浜の地点は 1999 年の 24 万円から下がって 2011 年と 2012 年に 21 万 7 千円となり、2026 年には記録の最初を大きく上回る 44 万 1 千円に達しました。5 地点のうち 2026 年の額が記録の最初の年を上回るのは百道浜だけです。和歌山マリーナシティは反対に、2026 年公示までで最も低い年が最新の 2026 年で、1995 年の 13 万円から 2026 年の 4 万 2,300 円まで、記録のあるどの年も前の年を上回っていません。

公示の地点は、百道浜が隣の地行浜、芦屋浜が松浜町、和歌山マリーナシティが本土側の毛見で、どれも主役の地点そのものではありません。地価は駅や都心からの距離、用途地域、周りの施設にも左右されるため、並べて見えるのは 5 地点の 2026 年までの道筋が大きく分かれたという事実までです。

砂浜の縁を覚えて二つの年代を往復する

百道浜 の地点ページでは、1974〜78 年と 1987〜90 年を行き来すると浜の線の行方がつかめます。砂浜の縁を一本の線として覚え、そのまま 2026 年時点の写真へ切り替えると、線の海側にどれだけの街が載ったかがひと目で分かります。続けて 芦屋浜 の 1945〜50 年と 1984〜86 年、りんくうタウン の 1984〜86 年、和歌山マリーナシティ の 1984〜86 年を同じ手順で開くと、浜の線が街の内側に入った土地と、浜を海岸線のまま残して沖に島を置いた土地の違いが見分けられます。

標高の断面に浜の線がどう表れるかは 標高を比べる記事 が手引きになります。造成地と旧来の市街の高さの差は、百道浜と芦屋浜で向きが逆でした。写真で浜の位置を確かめてから断面を見ると、線の両側の高さの違いがどちらの向きに出ているかが読み取れます。

本記事の価格は各時点の実例であり、執筆後の市場価格を反映するものではありません。

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