大垣駅前の約 60 年前と今

岐阜県 / 大垣駅前周辺の 1961〜1969 年の空中写真と現在の写真を重ねて比較できます。写真はすべて国土地理院が公開しているものです。

昔と今の比較

1961〜1969 年1961〜69 年 (出典: 国土地理院)
現在今 (出典: 国土地理院)

この年代の見どころ: 駅のすぐ北で、のこぎり屋根の長い建屋が何列も並ぶ。今の写真では、その列が商業施設の大きな屋根と駐車場に入れ替わっている

出典: 地理院タイル (年代別空中写真 / 全国最新写真) を加工して作成

この周辺を自由に見る地図を動かして、まわりの昔と今も見比べられます。

この地点で見られる写真の年代

大垣駅前周辺では、次の年代の空中写真を比較に使えます。

写真の年代のタイムライン: 1961〜1969 年 (最初に表示される年代)、1974〜1978 年、1979〜1983 年、1987〜1990 年。右端は今 1961〜1969 年最初に表示される年代 1974〜1978 年 1979〜1983 年 1987〜1990 年 19401960198020002020今
写真の年代のタイムライン: 1961〜1969 年 (最初に表示される年代)、1974〜1978 年、1979〜1983 年、1987〜1990 年。右端は今 1961〜1969 年最初に表示される年代 1974〜1978 年 1979〜1983 年 1987〜1990 年 1940196019802000今

この地点の昔の写真は 1961〜1969 年から 1987〜1990 年までの 4 世代で、最も新しい 1987〜1990 年の写真は 2026 年時点では 36〜39 年前にあたります。これより後で現在の写真より前の年代の写真は、この地点では見られません。年代ごとの違いは空中写真の年代ガイドにまとめています。

年代ごとの提供範囲は地域によって異なります。ここに挙げた年代は、この地点で実際に写真が提供されているものだけを載せています。

大垣駅前のあゆみ

東海道線が濃尾平野の西の端をゆるく弧を描いて横切る途中に、大垣駅がある。画面の中央を東西に走るその線路を境に、南には城下町から続く細かな家並みが、北には大きな屋根の工場がまとまっていた。城と駅と工場の敷地が一つの画角に収まり、年代を送ると、線路の南の街路の骨組みはほとんど動かないまま、北の工場の区画だけが姿を変えていく。

城下町から駅の町へ

大垣市の計画書によれば、大垣城の創建は 1535 年である。1600 年の関ケ原合戦では西軍の石田三成が本拠とし、1635 年に戸田氏鉄が十万石の城主として入ってからは、明治まで戸田氏 11 代が城主を務めた。城下には美濃路が通り、町は宿場として、また川の舟運の港としてにぎわった。川湊の跡は船町港跡として残り、松尾芭蕉が奥の細道の旅を結んだ地とされて、2014 年に国の名勝に指定された。城の外堀にあたる水門川の岸には、その紀行の句碑が並ぶ遊歩道が整えられている。

この重心を動かしたのが鉄道だった。1884 年に大垣駅が開業すると、小売の商いが集まる場所は船町港の周りから駅の周りへと移り、駅から南へ延びる通りに商店街が形づくられはじめる。1918 年には市制が敷かれた。繊維をはじめとする製造業が集まり、戦後も工場が増えて、高度経済成長期には紡績関連の工場が多数集まる岐阜県西部の工業都市になったと市は記している。

水はこの町の暮らしにも商いにも深く結びついてきた。市の中心には地下水が自ら湧き出る井戸が残る。地下水を汲み上げて使う繊維や化学の工場が戦後に増えたのも、この豊富な水があったからだと市の計画書は説明している。町が水の都を名乗る理由と、工場が集まった理由は、同じ足元の水にある。

1945 年 7 月の空襲は、中心市街地の大部分を焼いた。当時国宝だった大垣城の天守もこのとき失われている。戦後は駅通りを中心に、住宅を兼ねた鉄筋コンクリートの商店街が建てられ、地方都市としては大きな規模の近代的な街並みが生まれた。天守は 1959 年に再建された。空中写真に写る駅の南の格子は、この戦災復興の区画整理でつくり直された街路である。

線路の北に並んだ屋根

1961〜69 年の写真は、画面の下寄りの帯だけが暗く粒の粗い写りになっている。中央を東西に線路が弧を描き、駅の位置で線が太く束ねられる。画面の左寄りでは線路が扇のように開いて、西へ向かって構内が広がる。線路の北、画面の中央から左にかけては、のこぎり屋根の長い建屋が何列も並ぶ工場の敷地がある。その北、上辺の中ほどには運動場と楕円の走路が見える。画面の右寄りには池を抱えた大きな工場の敷地があり、その南には楕円の走路がもう一つ写る。画面の上半分の右側は細かく区切られた田で、樹に囲まれた集落がところどころに固まる。

線路は 1974〜78 年の写真で赤褐色の太い帯として浮かぶ。北の田は緑の区画のまま広く残り、のこぎり屋根の列も前の年代と同じ場所に並ぶ。その敷地の一角には水色の屋根の四角い建物が加わり、上辺の中ほどの運動場には扇形の野球場が読める。右寄りの工場には白い長い屋根の建屋が並び、池は埋められずに残っている。

1979〜83 年の一枚では、北の田のあいだに住宅が増え、刈り取りを終えた褐色の区画が目立つ。右寄りの工場の敷地には白い大屋根と灰色の舗装の面が現れ、工場とは違う使われ方がはじまったことをうかがわせる。線路の南の市街は、屋根の粒の密度も街路の向きも前の年代からほとんど変わらない。

のこぎり屋根の列の一部が白い平らな大屋根に置き換わるのは、1987〜90 年の写真である。上辺の中ほどでは野球場と陸上の走路が並ぶ形が整い、北の田はさらに住宅に削られた。線路の南、駅からやや西へずれた下寄りには樹木に囲まれた小さな緑の塊があり、その左を暗い水路が南北に走る。大垣城の位置と、外堀にあたる水門川の流れである。

紡績工場の跡と駅の北口

駅の北に並んでいたのこぎり屋根は、今の写真では一つも見えず、大きな商業施設の屋根と広い駐車場がその場所を占めている。大垣市の計画書は、駅の北の地区は基盤の整備が遅れていたが、紡績工場の撤退後の跡地に大規模な商業施設などが立つのに合わせて道路や広場が整えられたと記す。2007 年 10 月に駅の北側でアクアウォーク大垣が開店し、2009 年 9 月には駅の南北を結ぶ自由通路が開通した。同じ駅の北の紡績工場の跡地には、のちに家電の量販店やスポーツジムが出店し、約 200 戸の分譲住宅地も開かれている。

線路の南でも、駅前の街区は少しずつ建て替えられてきた。駅の南の街区の再開発では、住宅と商業施設と子育て支援の施設を収めた複合施設が 2016 年 9 月に竣工し、2020 年 1 月には市役所の新庁舎が完成した。画面の左寄り、駅の西の構内は、今の写真でも線路が扇の形に開いている。

上辺の中ほどの運動場には赤い走路が二面並び、北の田は住宅でほぼ埋まって、右上の隅にだけ区画の田がまとまって残る。画面の上端近くを東西に貫く道は、1961〜69 年には田のあいだの細い筋だったが、今の写真では幅の広い道路になり、右端で弧を描いて南東へ下っていく。右寄りの工場の敷地は大屋根と広い駐車場に変わり、その南の楕円の走路は古い年代と同じ位置にある。線路の南では、駅から南へ延びる通りと格子の街路は 1961〜69 年の写真とほぼ同じ線を引いたままで、城の森と水門川も動いていない。城下町と戦災復興の骨組みを残した南と、工場の敷地を入れ替えた北とが、一本の線路を挟んで並ぶ構図である。

主な出来事
年出来事
1635 年戸田氏鉄が十万石の城主として大垣に入る
1884 年大垣駅が開業し、商いの中心が船町港の周りから駅の周りへ移りはじめる
1945 年7 月の空襲で中心市街地の大部分と国宝の大垣城が焼ける
1959 年大垣城の天守が再建される
1961〜69 年線路の北にのこぎり屋根の工場の敷地が並び、その外れは田が広がる
2007 年駅の北側にアクアウォーク大垣が開店する
2009 年駅の南北を結ぶ自由通路が開通する
写真の見どころ
年代見どころ
1961〜69 年駅のすぐ北で、のこぎり屋根の長い建屋が何列も並ぶ。今の写真では、その列が商業施設の大きな屋根と駐車場に入れ替わっている
1974〜78 年画面の上半分の右側に緑の田が広がる。1979〜83 年と 1987〜90 年で住宅が入り込み、今の写真では右上の隅にだけ田が残る
1979〜83 年右寄りの工場の敷地に白い大屋根と灰色の舗装が現れる。1961〜69 年には、ここに池を抱えた工場があった
1987〜90 年線路の南で樹木に囲まれた緑の塊が大垣城で、その左を水門川が南北に走る。どの年代に切り替えても位置は変わらない

この地点の標高

大垣駅付近の標高 (海抜) は 7.2 m です (出典: 国土地理院 標高 API)。あわせて、この地点を中心とした東西と南北の標高の断面を載せています。

周辺の標高断面 (中心から東西 / 南北へおよそ 1 km ずつ)

断面の位置 (縦の緑の線 = 南北 / 横の青い線 = 東西)

東西の断面: 西端 6.2 m、東端 6.0 m、最高 7.4 m、最低 3.3 m、中心 7.2 m。縦方向は水平の約 58 倍に拡大 西 東西の断面 (縦 ×58 に拡大) 東 0 m 2 m 4 m 6 m 8 m -0.5 km 0 +0.5 km 7.2 m 7.4 m 3.3 m
東西の断面: 西端 6.2 m、東端 6.0 m、最高 7.4 m、最低 3.3 m、中心 7.2 m。縦方向は水平の約 93 倍に拡大 西 東西の断面 (縦 ×93 に拡大) 東 0 m 2 m 4 m 6 m 8 m -0.5 km 0 +0.5 km 7.2 m 7.4 m 3.3 m
南北の断面: 北端 6.5 m、南端 5.8 m、最高 7.3 m、最低 4.9 m、中心 7.2 m。縦方向は水平の約 58 倍に拡大 北 南北の断面 (縦 ×58 に拡大) 南 0 m 2 m 4 m 6 m 8 m -0.5 km 0 +0.5 km 7.2 m 7.3 m 4.9 m
南北の断面: 北端 6.5 m、南端 5.8 m、最高 7.3 m、最低 4.9 m、中心 7.2 m。縦方向は水平の約 93 倍に拡大 北 南北の断面 (縦 ×93 に拡大) 南 0 m 2 m 4 m 6 m 8 m -0.5 km 0 +0.5 km 7.2 m 7.3 m 4.9 m

標高は地表面の値です (駅が地下や高架にある場合も、値は地表面のものです)。標高は防災上の一要素にすぎません。実際の水害リスクなどは、ハザードマップポータルサイトや自治体が公表するハザードマップでご確認ください。

断面の標高タイル:地理院タイルを加工して作成

鉄道でのアクセス

大垣駅には次の路線が乗り入れています。

路線情報の出典:国土数値情報 (鉄道データ / 国土交通省) を加工して作成。

写真から見た変化のようす

1961〜1969 年の写真と現在の写真を機械的に比べると、見た目の変化の大きさは、掲載地点の中では大きい部類 (上位 2 割)です。下のバーは、この地点の変化の大きさが掲載地点の分布のどのあたりにあるかを示しています。

この地点 30.4 最小 12.5 中央値 23.2 最大 89.6
この地点 30.4 最小 12.5 中央値 23.2 最大 89.6

変化の大きさは、2 枚の写真の画素の明暗差の平均 (この地点は 30.4 / 0〜255 の範囲) にもとづきます。また、写真のきめ細かさ (テクスチャ量) は 13.4 から 48.9 へ変わっています。いずれも写真どうしの機械的な比較で、撮影時期や白黒とカラーの違いによる差も含まれるため、あくまで目安としてご覧ください。

地価公示価格の推移

この地点に最も近い地価公示の標準地は「岐阜県 大垣市林町 6 丁目 80 番 203」(直線距離で約 393 m / 用途は住宅) です。この標準地の 2023 年から 2026 年までの公示価格 (1 平方メートル当たり) の推移は次のとおりです。2026 年公示では 97,300 円です。

大垣駅前の最寄り標準地の地価公示価格の推移 (2023 年から 2026 年 / 1 平方メートル当たり) 0 円5 万円10 万円 2023 年: 9.3 万円2024 年: 9.4 万円2025 年: 9.5 万円2026 年: 9.7 万円9.3 万円9.7 万円2023
大垣駅前の最寄り標準地の地価公示価格の推移 (2023 年から 2026 年 / 1 平方メートル当たり) 0 円5 万円10 万円 2023 年: 9.3 万円2024 年: 9.4 万円2025 年: 9.5 万円2026 年: 9.7 万円9.3 万円9.7 万円2023
推移を表で見る
公示価格の推移 (1 平方メートル当たり)
年公示価格
2023 年93,400 円
2024 年94,200 円
2025 年95,200 円
2026 年97,300 円

出典: 国土数値情報 (地価公示データ / 国土交通省) を加工して作成。公示価格は毎年 1 月 1 日時点の標準地について公表される値で、個々の土地の取引価格を示すものではありません。標準地の選定や所在地は年によって見直されることがあります。

近くの地点

大垣駅前から近い順に並べています。あわせて見比べると、同じ地域がどう移り変わってきたかがつかめます。

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