戦前 1936〜42 年頃の空中写真に写る東京と大阪

公開日: 2026 年 9 月 11 日 / この記事は約 11 分で読めます

戦前の一枚に写り、次の世代で消えたもの

古い空中写真を年代の古い側へ送っていくと、たいていの地点では 1961〜69 年の白黒写真が終点になります。ところが東京 23 区と大阪市の周辺では、その先にもう一枚か二枚が控えています。1936〜42 年頃に撮られた写真です。この一枚を開いてから 1961〜69 年へ戻すと、あいだの 20 年から 30 年で街が何を失い、何をそのまま引き継いだのかが一度に見えます。

戦前の一枚にだけ写っていて次の世代では見当たらないものは、地点ごとにまるで違います。輪郭が直線の真っ黒な四角、貨車で埋まって塊になった線路の帯、川幅いっぱいに白く光る砂礫の河原、堤防の南を端から端まで埋める短冊形の田。この記事では東京と大阪の地点を並べ、その差を一つずつ確かめていきます。年代ごとの写真の性格やどの地域でどの世代が使えるのかは 空中写真の年代ガイド にまとめてあるので、戦前の 2 世代がどこまで届くのかを先に押さえておくと迷いません。

戦前の一枚と 1961〜69 年の一枚で入れ替わったもの
地点1936〜42 年頃に写るもの1961〜69 年の同じ範囲
汐留シオサイト何十本もの平行な線と、あいだに挟まる細長い上屋線の面が端まで埋まり、貨車の列で線が太く写る
大川端リバーシティ 21島の北半分に平行に伏せた細長い屋根屋根が一棟ごとに太くなり、島へ渡る橋の線が増える
恵比寿ガーデンプレイス直線で囲まれた真っ黒な四角い面が二か所黒い面は無く、棟の整列と楕円の水面が読める
二子玉川白く光る広い砂礫の河原と、川を渡る一本の橋両岸が家で埋まり、砂の上に薄い格子の区画が引かれる
高島平団地堤防の南を埋める短冊形の田と白い畦道左半分は田のまま。北の水路ぞいに工場と倉庫が並ぶ
千里ニュータウン枝分かれした谷の底に段をなして連なる細い田右手にだけ住棟が整列し、左半分は田と林

墨で埋まった黒塗りの四角

戦前の一枚を開いていちばん戸惑うのは、この面です。恵比寿ガーデンプレイス の 1936〜42 年頃の写真では、画面の右上と右下に、輪郭が直線で囲まれた四角い面が、周囲とはまったく調子の違う濃さで沈んでいます。周りの市街は白く光る道路も細かい屋根も読めるのに、その四角の内側だけが真っ黒です。1945〜50 年へ切り替えると同じ位置に黒い区画は無く、右下にはこんもりと盛り上がった大きな樹林が写ります。

あまがさきキューズモール周辺 では、同じことが画面の中ほどで数か所に起きています。墨を落としたように一様な黒で埋まった四角で、輪郭は直線です。周囲は短冊形の田畑で、田の一枚ごとの明るさの違いまで読める調子なので、黒い四角だけが浮いて見えます。森之宮 の一枚では黒い面がもっと大きく、大阪城の東から北へ不定形に広がります。北の端は川に接し、南の縁は道路に沿ってほぼ直線で切れます。面の上を斜めの線が無数に走り、内側には塗り残しの白い点が散っています。

写真の出来が悪いわけではありません。同じ一枚のなかで、大阪城の二重の堀と、城内に整然と並ぶ白い建物は明瞭に写っています。面の上を走る線の跡から、撮ったあとに手を加えられた面だと読めます。何が写らなかったのかは、この一枚からは分かりません。

黒い面には二種類ある

健都 (吹田操車場跡) の 1936〜42 年頃の一枚にも、真っ黒な面があります。ただしこちらは塗られた面ではありません。線路の帯が紡錘形の黒い塊として写り、線の一本ずつが読めなくなっています。貨車で埋まっているためです。周囲は変わらず整然とした農地で、左上から左下へ白く明るい幅の広い道が斜めに走ります。農地の目の細かさと帯の黒さの対比が、この地点ではこの年代でもっとも強く出ます。

読み分けの手がかりは二つあります。一つは輪郭です。手を加えられた面の縁は直線か、道路に沿った折れ線になり、地面の形とは関わりなく切れます。貨車で黒くなった帯は線路の並びに沿って細長く、両端が細まります。もう一つは隣の年代の見え方です。吹田の帯は 1945〜50 年へ送ると明るい面に変わり、線の一本ずつが読めるようになります。留め置かれた貨車が少なければ、同じ帯が明るく写るということです。塗られていた四角のほうは、1945〜50 年では区画そのものが見当たりません。

焼けた市街と崩れなかった構内

戦前と 1961〜69 年のあいだには、もう一枚、1945〜50 年の写真が挟まっています。これを飛ばさずに通ると、街の変化が二段に分かれていることが分かります。1945 年の空襲で、東京と大阪の市街は広い範囲が焼けました。汐留シオサイト でこの年代を開くと、焼けた市街は建物の密度が落ち、街区の割り方だけが線として残っています。ところが荷を扱う上屋と線路が並ぶ構内の面は、ほとんど形を崩していません。壊れやすいものと壊れにくいものが、同じ画面のなかで分かれて見える年代です。

うめきた (グランフロント大阪) でも同じ対比が出ます。1936〜42 年頃と行き来すると、街区の割り方は残っているのに建物の密度が抜け落ちて見える箇所があり、線路の帯だけが形を保っています。あまがさきキューズモール周辺 の 1945〜50 年は、粒が粗く全体が白っぽく明るい画面です。市街のあちこちに白く抜けた区画が散り、建物の輪郭を失って区画の形だけが残っています。同じ画面には細長い棟をきれいに整列させた区画も写っていて、焼けた面と動いている工場とまだ残る畑が一枚に同居しています。

森之宮 では、戦前に黒く覆われていた範囲がこの年代で白と黒のはっきりした階調に戻ります。塗りが外れた面に残っているのは、輪郭を失った灰色の広がりです。中央から下には建物の形がほとんど無く、曲がった小道が幾筋か通るだけになります。画面の上寄りには白い縞模様の大きな矩形があり、屋根の稜線がまだ残っている棟だと読めます。隠されていた面と、隠すものが無くなった面を続けて見ると、戦前の一枚の意味が反転して見えてきます。

河原が広く橋が一本だけだった二子玉川

二子玉川 の 1936〜42 年頃の写真では、多摩川が画面を左上から右下へ斜めに切っています。水の筋は細く、その両側に白く光る砂礫の河原が驚くほど広く取られています。流れは一本にまとまらず、河原の中で分かれて洲を回り込み、また合わさります。川を渡る橋は画面のなかに一本だけで、そのたもとから北東へ道が伸び、その道の両側だけ家並みが濃くなります。外側はほとんどが畑と田の区画で、橋のたもとが街の芯でした。

1945〜50 年では砂礫の白がいっそう広がり、河原の中に細長い洲が島のように残ります。橋は相変わらず一本のままで、その北東側にだけ家並みが厚みを増していきます。1961〜69 年へ送ると、両岸はもう家で埋まり、畑の区画は画面の隅へ押しやられ、堤の線の内側まで建物が近づきます。それまで白いだけだった砂の上には薄い格子の区画が引かれます。戦前の一枚でいちばん目を引いた白い広がりは、街に呑まれて消えたのではなく、上から線を引かれて役目を変えた形です。

島に伏せていた屋根と、まだ空いていた平地

大川端リバーシティ 21 の 1936〜42 年頃の一枚では、島の北半分に細長い屋根が何棟も平行に伏せています。棟の向きがそろい、あいだに細い通路が通ります。西の岸は碁盤に区切られた市街で、屋根の粒が隙間なく詰まっています。見落としたくないのは枠の下寄りです。道路の格子だけが引かれた明るい平地が広がり、区画は切られているのに建物がありません。埋立が済んで街になる前の土地が、手つかずのまま同じ一枚に収まっています。

1945〜50 年でも川の分かれ方は変わりません。島の上には細長い明るい帯が並び、周りの水面には小さな船が点々と散ります。東の側では細長い区画が水面を仕切って何列も並び、材木を扱う場所らしい形が読めます。1961〜69 年で増えるのは水の上の線です。西の岸から島へまっすぐ渡る橋が架かり、島の建屋は一棟ごとに太くなって屋根の面が広がります。島の東の水面には小さな形が数え切れないほど群れ、船溜まりの賑わいがそのまま粒になっています。この島では水の形が動かないまま、水の上の使われ方だけが入れ替わりました。

戦前と 1961〜69 年がほとんど同じに見える高島平

二枚を並べても差がほとんど出ない地点もあります。高島平団地 がそれです。1936〜42 年頃の写真では、画面の上端を荒川が横切り、そのすぐ南を幅の広い堤防が東西に蛇行しています。堤防の内側は端から端まで田です。短冊形の細長い区画が向きをそろえて並び、区画ごとに明るさが違うので、画面全体が細かい市松のように見えます。田のあいだを白い畦道が縦横に走り、家は南の縁に寄っています。

1945〜50 年の写真は粒が細かく、田の一枚ごとの形まで読めます。堤防の南に沿って細い水路が蛇行し、田の格子はその水路から水を分けています。街路の格子はどこにも引かれていません。1961〜69 年に切り替えても、画面の左半分はまだ田のままです。動きが出るのは北で、水路ぞいに工場と倉庫が並びはじめ、田のなかに二棟だけ孤立して大きな白い屋根が立ちます。田の格子がまとめて消えて板状の棟の列が現れるのは、次の 1974〜78 年です。

この地点では戦前と戦後直後と 1960 年代の三枚がほぼ同じ絵で、入れ替わりは一つの世代のあいだにまとめて来ています。戦前の一枚の値打ちは、古いことそのものではありません。変化がいつ来たのかを世代の間隔で挟み込めることにあります。三枚見比べて動かないと分かれば、それも答えの一つです。

丘の上はまだ村だった千里

千里ニュータウン (千里中央) の 1936〜42 年頃の写真は、丘のかたちがそのまま出た一枚です。画面のいたるところで谷が枝のように分かれ、その底に段をなす田が連なります。田の輪郭は等高線に沿って弓なりに曲がり、一枚ごとの面積は小さいままです。尾根には濃い林と竹林が乗り、白く見える畑がその肩に張りついています。集落は谷の出口や斜面の裾にかたまり、丘を越える太い道はどこにも見当たりません。道はどれも田と集落を結ぶだけの幅です。この地点の標高は 66.6 m で、うめきた (グランフロント大阪) の 0.7 m や 高島平団地 の 3.4 m とは 60 m 以上違います。

1945〜50 年でも、この構図はほとんど動きません。谷の田は手入れの跡がいくらか濃くなり、畑の区画が細かく割られた場所もありますが、街の気配は差してきません。変わるのは 1961〜69 年です。画面の右手にだけ同じ向きの住棟が整然と並び、左半分はまだ田と林のままで、造成がどちら側から寄せてきたのかが境目で見当がつきます。吹田市の説明では、千里ニュータウンのまちびらきは 1962 年で、佐竹台から入居が始まりました。戦前の谷の田と住棟の列が、写真では隣り合う世代として並びます。

地価の記録は写真よりずっとあとに始まる

戦前の写真が残る地点でも、地価公示の記録はずっとあとから始まります。森之宮あまがさきキューズモール周辺高島平団地 の三つは 1983 年から、恵比寿ガーデンプレイス は 2011 年からで、いずれも写真の側が半世紀近く、あるいはそれ以上先まで届いています。値の記録が無い時代の土地の姿を確かめる手立てとして、戦前の一枚が担う役目は小さくありません。観測点はそれぞれの地点から 300 m から 900 m ほど離れた住宅地にあります。

近くの地価公示の記録 (1 平方メートルあたり・2026 年の公示までの系列)
地点系列の始まり最も高い年最も低い年2026 年
森之宮1983 年 48 万円1991 年 158 万円2011 年と 2012 年 47 万 5 千円71 万 5 千円
あまがさきキューズモール周辺1983 年 20 万 8 千円1991 年 55 万 5 千円2012 年・2013 年・2014 年 18 万 2 千円19 万 5 千円
高島平団地1983 年 29 万 5 千円1988 年 85 万 7 千円1983 年 29 万 5 千円43 万 6 千円
恵比寿ガーデンプレイス2011 年 152 万円2026 年 390 万円2011 年・2012 年・2013 年 152 万円390 万円

同じ 2026 年の値を見ても、系列の入り口が違えば読み方は変わります。1983 年から続く三つの地点は 1988 年から 1991 年に高い値を記録したあと下げに入り、2026 年の値はその山より低いところにあります。2011 年から始まる恵比寿の系列には、その山が最初から入っていません。写真の世代と同じで、入り口をそろえずに比べると差を読み違えます。

二枚を往復させるときの手がかり

戦前の一枚は粒が粗く、白い点や細い傷が散り、色の手がかりもありません。それでも読める材料はあります。輪郭が直線の面は人の手が入った面で、等高線に沿って弓なりに曲がる線は水と地形が決めた面です。同じ画角のなかで動かないものを一つ決めておくと、変化の量が測りやすくなります。川の分かれ方、堤防の位置、線路の向き、樹林のかたまりが、その役に立ちます。切り替えや重ね合わせの手順は 昔の航空写真の見かた にまとめてあります。

黒い面に出会ったら、まず輪郭を見て、それから隣の年代へ送ってみてください。手を加えられた四角なら 1945〜50 年でその区画が見当たらなくなり、貨車で埋まった帯なら同じ位置に明るい線の束が現れます。この手つきで戦前の一枚を開けば、街の 90 年ぶんが二枚か三枚の差として立ち上がってきます。それぞれの地点のページでは年代を選んで見比べられるので、気になった一枚から確かめてみてください。

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