釜石駅前 (製鉄所跡) の約 50 年前と今 (昔の航空写真で比較)

岩手県・釜石駅前 (製鉄所跡)周辺の 1974〜1978 年の空中写真と現在の写真を重ねて比較できます。写真はすべて国土地理院が公開しているものです。

むかしと今の比較

1974〜1978 年 (出典: 国土地理院)
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現在 (出典: 国土地理院)
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出典: 地理院タイル (年代別空中写真・全国最新写真) を加工して作成

この地点で見られる写真の年代

釜石駅前 (製鉄所跡)周辺では、次の年代の空中写真を比較に使えます。

年代ごとの提供範囲は地域によって異なります。ここに挙げた年代は、この地点で実際に写真が提供されているものだけを載せています。

この地点の標高

釜石駅付近の標高は 6.7 m です (出典: 国土地理院 標高 API)。周辺約 250 m の標高もあわせて載せています。

周辺の標高 (おおよそ 250 m 間隔)
西中心
43.0 m4.2 m6.7 m4.1 m5.1 m

標高は地表面の値です (駅が地下や高架にある場合も、値は地表面のものです)。標高は防災上の一要素にすぎません。実際の水害リスクなどは、ハザードマップポータルサイトや自治体が公表するハザードマップでご確認ください。

鉄道でのアクセス

釜石駅には次の路線が乗り入れています。

路線情報の出典: 国土数値情報 (鉄道データ・国土交通省) を加工して作成。

写真から見た変化のようす

1974〜1978 年の写真と現在の写真を機械的に比べると、画素の明暗差の平均は 48.2 (0〜255) でした。また、写真のきめ細かさ (テクスチャ量) は 59.7 から 43 へ変わっています。数値が大きく違うほど、この間に土地の見た目が大きく変わったことを示します。

この数値は写真どうしの機械的な比較です。撮影時期や白黒とカラーの違いによる差も含まれるため、あくまで目安としてご覧ください。

地価公示価格の推移

この地点に最も近い地価公示の標準地は「岩手県 釜石市中妻町2丁目16番」(直線距離で約 1.3 km・用途は住宅) です。この標準地の 1992 年から 2025 年までの公示価格 (1 平方メートル当たり) の推移は次のとおりです。

釜石駅前 (製鉄所跡) の最寄り標準地の地価公示価格の推移 (1992 年から 2025 年・1 平方メートル当たり) 7 万円5.8 万円19922000201020202025
推移を表で見る
公示価格の推移 (1 平方メートル当たり)
公示価格
1992 年70,000 円
1993 年70,500 円
1994 年70,500 円
1995 年70,500 円
1996 年70,500 円
1997 年70,500 円
1998 年70,500 円
1999 年70,500 円
2000 年70,500 円
2001 年70,500 円
2002 年70,500 円
2003 年69,800 円
2004 年68,100 円
2005 年66,000 円
2006 年63,000 円
2007 年59,500 円
2008 年56,100 円
2009 年52,800 円
2010 年49,600 円
2011 年46,500 円
2012 年46,200 円
2013 年48,300 円
2014 年50,100 円
2015 年53,800 円
2016 年54,800 円
2017 年55,000 円
2018 年55,000 円
2019 年56,900 円
2020 年58,300 円
2021 年58,300 円
2022 年58,300 円
2023 年58,300 円
2024 年58,200 円
2025 年58,100 円

出典: 国土数値情報 (地価公示データ・国土交通省) を加工して作成。公示価格は毎年 1 月 1 日時点の標準地について公表される値で、個々の土地の取引価格を示すものではありません。標準地の選定や所在地は年によって見直されることがあります。

釜石駅前 (製鉄所跡) のあゆみ

この地点に用意されている昔の写真は、1974〜78 年の一枚だけである。年代を何枚も行き来して変化を追うことができないぶん、その一枚を細かく読むことに意味が出てくる。写っているのは、谷の底をすきまなく埋めた製鉄所である。高炉と工場建屋、背の高い煙突、屋外に組まれた設備と、そのあいだを縫う何本もの線路。画像のきめを表す数値は 59.7 と非常に高く、鉄骨と設備が密に並ぶ重工業の面であったことが数字にも出ている。

なぜ谷の底なのかは、標高の並びを見ると分かる。地点の中心は 6.7 m、南で 5.1 m、東で 4.1 m、西で 4.2 m と、いずれも海面からわずかしか高くない。ところが北の測定点はいきなり 43 m になる。山が海岸まで迫る三陸の地形のなかで、平らに使える土地は谷筋にしかなく、その谷も北側はすぐ斜面で終わる。使える面の少なさが、この街の配置をすべて決めている。

鉄と森と湾がそろう

鉄がこの土地に根づいた理由は、三つのものが近くにそろっていたことにある。鉄鉱石を含む山、燃料の木炭を焼ける森、そして鉄を積み出せる湾である。互いに離れていれば運ぶ手間で釣り合わなくなるが、釜石ではそれが数里の内側に収まっていた。1857 年、内陸の大橋で大島高任が洋式の高炉に火を入れ、鉄鉱石から銑鉄を得ることに成功する。砂鉄ではなく鉱石から鉄を取り出す方式が国内で動いた最初の例とされ、近代製鉄の発祥をこの地に結びつける根拠になっている。

1880 年には官営の製鉄所が操業を始めた。あわせて鉱山から鉄鉱石を運ぶための鉄道も敷かれている。人を運ぶためではなく、鉄をつくるために引かれた線路であり、国内でもごく早い時期の鉄道にあたる。ただし官営の事業は長く続かず、数年で行き詰まった。引き継いだのは民間で、田中長兵衛らの手により 1880 年代の後半に安定した操業へこぎつけている。国が始めて手放し、商人が立て直したという順序が、この製鉄所の性格を最初に決めた。

斜面に押し出された家

谷に大きな工場を置けば、人の住む場所は残りの土地へ押し出される。釜石では、底を工場が占め、その縁から立ち上がる斜面に住宅がびっしりと張りついた。街の形は地形に従い、同時に工場の形にも従っている。1974〜78 年の写真で、建屋の並びが切れるあたりから小さな屋根の密集が始まるのを見ると、その関係がそのまま画面に出ていることが分かる。

工場の街であることは、戦争のときに別の意味を持った。1945 年、釜石は海上からの艦砲射撃を二度受け、製鉄所と市街が大きな被害を受けている。それでも製鉄は再び動き出し、1960 年代の前半には市の人口が 9 万人を超えた。港と工場と鉄道が一つの谷に詰まった、密度の高い工業都市がここにあった。

この時期の釜石の名を全国へ運んだのは、鉄そのものよりも製鉄所のラグビー部だった。1970 年代の終わりから 1980 年代の半ばにかけて日本選手権を七年続けて制し、「北の鉄人」と呼ばれた。工場に勤める人が主体のチームが日本一を続けたことは、企業と街と競技が一体だった時代の象徴として語られる。1974〜78 年の写真は、その連覇が始まる直前の谷を写していることになる。

一枚しかない写真だからこそ、区画ごとに順を追って見ていきたい。谷の中央には大きな建屋が、長い辺を谷筋の向きにそろえて並ぶ。屋根はいずれも直線的で、明るさがよくそろっている。建屋のあいだには細い線が何本も走っている。工場の内側で貨車を動かすための線路である。ところどころに円筒形の構造物と背の高い煙突が立ち、影の長さから高さの差が読み取れる。海側へ目を移すと、岸壁らしい直線と水面との境が見える範囲もある。画面の情報量が多いのは、写っているものの一つ一つが小さく、しかも数が多いからである。

火が落ちた谷

高炉の火が落ちたのは 1989 年である。原料を輸入に切り替えた製鉄業では、大型の船を直接着けられる広い臨海の工場へ生産が集められていった。山から鉱石を運び、狭い谷で操業するという釜石の成り立ちは、その流れのなかで不利になる。ただし高炉が休止しても、製鉄所そのものが消えたわけではない。線材をつくる工程は残った。谷から失われたのは、高炉とそれを囲んでいた巨大な設備群だと言ったほうが正確である。

設備の解体には時間がかかる。炉と、原料を運ぶ長い構台と、無数の配管を順に外していく作業であり、平らな地面になるまでの数年は、谷の底が抜けていく途中の状態が続いた。都心の跡地のように、次の使い手がすぐ列をつくる場所でもない。人の数が減り始めた工業都市に、平らな土地だけが残されたという状況である。空白は、計画の遅れというより土地の条件そのものから来ていた。

ほどけていった面

2026 年時点の写真では、谷の底に平らな屋根と舗装の面が広がっている。駅の周りには商業や公共の用途の建物が建ち、駐車場の面がそのあいだを埋める。高さのある構造物が減ったぶん、画面は 1974〜78 年より空いて見える。鉄道の側では、2019 年に三陸鉄道の南北の路線がつながり、釜石はリアス線の途中の駅になった。2011 年の震災では市街の低い部分が津波の被害を受け、湾の入口に築かれていた長大な防波堤も大きく損壊して、その後に造り直されている。海に近い低地であるため、想定される浸水の範囲は市が公開しているハザードマップで確かめておきたい。

画像を数値に置き換えて比べると、この地点の変化は向きが逆であることがはっきりする。きめの値は 59.7 から 43.0 へ下がり、平均画素差分は 48.2 に達した。多くの土地では、田畑や空き地が建物に置き換わって値が上がる。ここでは密に詰まっていた設備が抜け、面が単純になった。差分の大きさは変化の激しさを示し、きめの低下はその変化がほどける方向であったことを示している。

地価の参照点は、地点から約 1.3 km 離れた中妻町 2 丁目の住宅地である。1992 年の 1 平方メートルあたり 7 万円から翌年に 7 万 500 円となり、2002 年まで同じ値で動かない。そこから下げ続けて 2012 年に 4 万 6,200 円で底を打ち、以後は戻して 2025 年は 5 万 8,100 円である。高炉が止まってから十年あまりは値が動かず、下降が始まるのは 2000 年代に入ってからという順序になっている。

谷の外にも痕跡は残っている。大島高任が関わった内陸の橋野の高炉跡は石組みが現地に残り、2015 年に世界文化遺産の構成資産となった。市内には製鉄の歴史を伝える展示施設もある。駅前の写真で何が減ったのかを確かめたあと、その鉄がどこから始まったのかを内陸へたどれる土地である。

写真の見どころ
切り替える年代見どころ
1974〜78 年谷の底をすきまなく埋める建屋と煙突。工場の面が谷の幅いっぱいまで届いているかを、両側の斜面との境で見定めたい
1974〜78 年建屋の並びが切れるあたりから始まる小さな屋根の密集。平らな土地と斜面が切り替わる線を探してみたい
1974〜78 年と 2026 年時点減る方向の変化。同じ幅の谷から、高さのある構造物がどれだけ姿を消したかを往復して確かめたい
2026 年時点平らな屋根と舗装の面が谷を埋める。建屋の並びの向きが、道路や区画の向きに引き継がれていないかに注目したい
両方の年代谷を刻む川筋と鉄道の線は、二つの年代で位置が大きく変わらない。そこを手がかりにすると、両側の面がどう入れ替わったかを追いやすい
釜石駅前のあゆみ
出来事
1857 年内陸の大橋で洋式高炉に火が入り、鉄鉱石からの製鉄が始まる
1880 年官営の製鉄所が操業を始め、鉱山からの鉄道もあわせて敷かれる
1945 年海上からの艦砲射撃を二度受け、製鉄所と市街が被害を受ける
1974〜78 年この地点で見られる昔の写真の年代。高炉と工場建屋が谷を埋める
1989 年釜石製鉄所の高炉が休止する
2015 年内陸の橋野の高炉跡が世界文化遺産の構成資産となる
2019 年三陸鉄道の路線がつながり、釜石がリアス線の途中駅となる

近くの地点

釜石駅前から近い順に並べています。あわせて見比べると、同じ地域がどう移り変わってきたかがつかめます。

同じ成り立ちの地点

釜石駅前と同じく工場跡として生まれた街を、離れた地域から選んでいます。土地の使われ方や街の形の共通点を見比べられます。

この地点が登場するよみもの